『ルック・アット・ミー・ナウ+4』/ ディック・ヘイムズ Look At Me Now! +4/ Dick Haymes

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

topchronologydiscographyfilmographybest 10interviewsSSJ presentsfan clubshopblogmail

SSJ presents shop

misic bird

amazon

天然石 パワーストーン

 

sinatra society of japan
TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『ルック・アット・ミー・ナウ+4』/
ディック・ヘイムズ

『ルック・アット・ミー・ナウ+4/ディック・ヘイムズ Look At Me Now! +4/
Dick Haymes
特別価格
 (XQAM-1019)
原盤:ハリウッド ⇒ Glendale
録音:1958年/1957年   日 本 初 登 場
>>購入する  

   1940年代の一時期、フランク・シナトラの人気を凌駕した男性ヴォーカル界最高の バラード歌手ディック・ヘイムズが1950年代に残したレア・アルバムを完全収録。 加えて同時期のラジオ録音を2曲追加収録した。
 

1. You Stepped Out of a Dream/ユー・ステップト・アウト・オブ・ア・ドリーム  >>試聴
2. This Time the Dream's on Me/ジス・タイム・ザ・ドリームズ・オン・ミー  >>試聴
3. You're My Girl/ユア・マイ・ガール  >>試聴
4. My Heart Stood Still/マイ・ハート・ストゥッド・スティル  >>試聴
5. A Sinner Kissed an Angel/ア・シナー・キスト・アン・エンジェル  >>試聴
6. Cheek to Cheek/チーク・トゥ・チーク  >>試聴
7. So Far/ソー・ファー  >>試聴
8. On a Slow Boat to China/オン・ア・スロー・ボート・トゥ・チャイナ  >>試聴
9. The Riviera/ザ・リヴィエラ  >>試聴
10. Oh! Look at Me Now!/オー!ルック・アット・ミー・ナウ!  >>試聴
11. A Very Precious Love/ア・ヴェリー・プレシャス・ラヴ  >>試聴
12. The Long Hot Summer/ザ・ロング・ホット・サマー  >>試聴
13. What's New?/ホワッツ・ニュー?  >>試聴
14. Moonlight Becomes You/ムーンライト・ビカムズ・ユー  >>試聴

 
 
 アメリカ最高の男性バラード・シンガーを挙げるなら、ヴィック・ダモンとディック・ヘイムズだろう。ダモンは透明でクリスタルな美声を活かしたドラマティックな歌を得意としたが、ヘイムズは深いバリトン・ボイスで情緒綿々と夢見るように歌うクルーニング唱法で多くの女性のハートをとろけさせた。1940年代、唱法的にふたりの中間に位置したのがフランク・シナトラだが、ヘイムズは、ハリー・ジェームス楽団やトミー・ドーシー楽団の専属歌手になるなど、シナトラと同じような道を歩み、1940年代の一時期シナトラの人気を凌いだこともあった。また明るくボーイッシュなルックスで、ロジャース=ハマースタインのミュージカル『ステート・フェア』(1945)やエヴァ・ガードナー主演の『ヴィナスの接吻』(1948)ほか映画にも出演したし、リタ・ヘイワースをはじめ生涯に6度結婚するなど、エヴァ・ガードナーと結婚した1歳年上のシナトラとの共通点も多い。

 ディック・ヘイムズは1916年9月13日にアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれた。牧場を経営していた父親のベンジャミンはスコットランド&アイルランド系で、アイルランド系の母親マーガリートはカリフォルニアで生まれた。1922年ベンジャミンと離婚したマーガリートはディックを連れてアメリカに渡り、次男のボブ(やはりシンガーになったが、「ザッツ・オール」の作者としてのほうが有名)が生まれた。その後3人はパリに移るが、世界大恐慌のあおりでニューヨークへ戻り、マーガリートは歌手、ヴォーカル・コーチとなって生計を立てた。
 ピークスキルの陸軍アカデミーに入ったヘイムズは、母親の影響で1931年にニュージャージーのホテルで歌うようになり、1933年には学校を辞めてハリウッドを目指した。当初はスタントや端役で映画に出たりしながら苦労し、作曲も始めハリー・ジェームスに何曲か見せるが却下された。しかし、1940年にシナトラに去られた彼のバンド・シンガーとして採用されたことで、人気シンガーへのきっかけを掴んだ。1942年にハリー・ジェームス楽団を辞し短期間ベニー・グッドマン楽団にいたあと、やはりシナトラの後釜としてトミー・ドーシーの楽団に迎えられた。1943年コロンビアとレコーディング契約を結んだシナトラを追って独立すると、すぐにデッカ・レコードと契約、CBSラジオに迎えられてヘレン・フォレストやソングライター&アレンジャーのゴードン・ジェンキンスとチームを組み、20世紀フォックスとも映画出演契約を結ぶなど、人気絶頂期を迎えた。
 しかしその一方で、ふたり目の結婚相手である女優のジョーアン・ドルー(『赤い河』『黄色いリボン』など西部劇で存在感を示した)との離婚の痛手から酒に溺れ、金銭感覚に乏しかったため税務当局から追求されるなど私生活の崩壊が始まった。中立国のアルゼンチン国籍だったので、第二次大戦中は敵対的行為を行わないことを宣言したが、徴兵は拒否した(アメリカでは、国籍は違っても在住者は徴兵されることがある)。 1953年に結婚した4人目のリタ・ヘイワースの映画『雨に濡れた欲情』のロケ地ハワイに同行したが(前年シナトラは妻のエヴァ・ガードナーの映画『モガンボ』のロケ地アフリカに同行している)、当時のハワイはまだ準州だったため本土への再入国を拒否され、危うくアルゼンチンへ送還されそうになったが、このことは当時としては大変なスキャンダルだった。また、IRS(米国税当局)からの厳しい追徴を受け破産するなど、1950年代以降は仕事以外のトラブルが続出し人気も低迷する。デッカとの契約は1952年に打ち切られ(シナトラも1952年にコロンビアから契約破棄された)、歌手として円熟期にさしかかりながら1950年代にはわずか3枚のアルバムしか残せなかった。
 1950年代の3枚のアルバムは、日本でもCD化された1955年録音の『レイン・オア・シャイン』(T-713)と1956年録音の『ムーンドリームズ』(T-787)という2枚のキャビトル・アルバム、それに1958年2月のハリウッド原盤『ルック・アット・ミー・ナウ!』(LPH-138)だが、1960年にはウォーウィックから『リチャード・ザ・ライオン・ハーテッド』(W-2023)をリリースしている。
 歌手のフラン・ジェフリーズとの結婚にも破れたヘイムズは1961年アイルランドに渡り、のちにアイルランド国籍を取得した。1965年までにアルコール依存症を克服して、イギリスやアイルランドで活躍を始めたが、英マーキュリーに吹き込んだ『ゼン・アンド・ナウ』(SMCL-20171)はこの時代のアルバムである。その後しばらくブエノスアイレスで暮らしていたが、1970年代アメリカに戻った。レス・ブラウン楽団をバックに溌剌と歌うロスのココナッツ・グローブでの1973年のライヴ盤『ディック・ヘイムズ・カムズ・ホーム!』(デイブレーク DR-2016)は復活を強く印象づける素晴らしいアルバムだったが、1980年3月28日肺ガンのためロスで亡くなった。享年63。
 フランク・シナトラを追うように登場し、シナトラ最大のライバルとして一時はシナトラの人気を凌駕したディック・ヘイムズだが、シナトラのように決定的な復活を果たすことはなかった。

 本作『ルック・アット・ミー・ナウ!』(@〜K)の録音・発売時期は資料によってまちまちだが、1958年2月のようだ。伴奏はモーリー・ローズ楽団によるフル・オーケストラと、サイ・コールマン(p)をリーダーとするトリオあるいはカルテットである。このアルバムはディック・ヘイムズが自費を投じて制作されたものだが、メジャーからは相手にされず、マイナーのハリウッド・レーベルから@〜Iの10曲盤としてリリースされた。のちにティアラ、ヴァイキング、スターダスト、ホールマークなどを転々とした不幸な作品だが、久々のアルバム制作に賭けるヘイムズの意気込みが伝わってくる力作である。なお、LとMはこの時期のラジオ番組で、多分1957年の “U.S. Savings Bond” がソースである。伴奏はハリー・ソスニック・オーケストラ。

【 曲目 】

@ユー・ステップト・アウト・オブ・ア・ドリーム ガス・カーン作詞、ナシオ・ハーブ・ブラウン作曲の1940年の歌で、翌41年のミュージカル映画『美人劇場(ジーグフェルド・ガール)』でトニー・マーティンが歌った。

Aジス・タイム・ザ・ドリームズ・オン・ミー 1941年にジョニー・マーサーが作詞、ハロルド・アーレンが作曲して、同年のミュージカル映画『ブルース・イン・ザ・ナイト』(本邦劇場未公開)でプリシラ・レインが紹介した。ウディ・ハーマン楽団とグレン・ミラー楽団のレコードがヒットしている。

Bユア・マイ・ガール サミー・カーンが作詞、ジューリィ・スタインが作曲して、727回上演された1947年のブロードウェイ・ミュージカル『ハイ・ボタン・シューズ』でマーク・ドーソンとロイス・リーが紹介した。

Cマイ・ハート・ストゥッド・スティル ロレンツ・ハートが作詞、リチャード・ロジャーズが作曲した作品で、1927年5月に始まったロンドンでのレビュー『ワン・ダム・シング・アフター・アナザー』で紹介され、新しい歌詞によって同年11月開演のブロードウェイ・ミュージカル『ア・コネチカット・ヤンキー』に使われた。

Dア・シナー・キスト・アン・エンジェル マック・デイヴィッドが作詞、レイ・ジョセフが作曲して、1941年にシナトラをフィーチャーしたトミー・ドーシー楽団のヴィクター盤とヘイムズをフィーチャーしたハリー・ジェームス楽団のコロンビア盤が競い合い、ともにビルボード・チャートの15位につけた。

Eチーク・トゥ・チーク 1935年にアーヴィング・バーリンが作曲して、ミュージカル映画『トップ・ハット』でフレンド・アステアが歌って、アカデミー歌曲賞にノミネートされた。受賞曲は「ブロードウェイの子守唄」。

Fソー・ファー オスカー・ハマースタイン二世が作詞、リチャード・ロジャーズが作曲して、315回上演の1947年のブロードウェイ・ミュージカル『アレグロ』でグロリア・ウィルズが紹介した。

Gオン・ア・スロー・ボート・トゥ・チャイナ 1948年にフランク・レッサーが作詞作曲したナンバーで、ハリー・バビットとグロリア・ウッドの歌をフィーチャーしたケイ・カイザー楽団のコロンビア盤がヒットした。

Hザ・リヴィエラ このアルバムの何曲かでピアノを弾いているサイ・コールマンが作曲したナンバーで、作詞はジョセフ・マッカーシー。1956年に出版された。

Iオー! ルック・アット・ミー・ナウ ジョン・デ・ヴィリースが作詞、ジョー・ブシュキンが作曲して、1941年にシナトラとコニー・ヘインズをフィーチャーしたトミー・ドーシー楽団のヴィクター盤がヒットして、ビルボード・チャートの2位まで上昇した。

Jア・ヴェリー・プレシャス・ラヴ アカデミー主題歌唱を受賞した「慕情」のコンビ、ポール・フランシス・ウェブスターが作詞、サミー・フェインが作曲して、ジーン・ケリーとナタリー・ウッドが共演した1958年の映画『初恋』で紹介され、アカデミー主題歌賞にノミネートされた。受賞曲は「ジジ」。エイムズ・ブラザースのRCA盤がビルボード・チャートの23位にランクされた。

Kザ・ロング・ホット・サマー ポール・ニューマンとジョーン・ウッドワードが共演した1958年の映画『長く熱い夜』のためにサミー・カーンが作詞、アレックス・ノースが作曲して、タイトルバックでジミー・ロジャーズによる歌が流れた。出版は1957年。

Lホワッツ・ニュー? ジャズ・ベーシストのボブ・ハガートが1938年に書き、ハガートが所属していたボブ・クロスビ−楽団によって紹介された「アイム・フリー」という曲に、翌39年ジョニー・バークが歌詞をつけたもの。ビング・クロスビーのデッカ盤がビルボード・チャートの10位まであがり、ビリー・バタフィールド楽団のテーマ曲になった。ヘイムズはキャピトルのアルバム『ムーンドリームズ』でも歌っている。

Mムーンライト・ビカムズ・ユー ビング・クロスビーとボブ・ホ−プの『珍道中』映画シリーズのひとつ『モロッコ珍道中』(1942)のために、ジョニー・バークが作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンが作曲して、クロスビーが歌った。ヘイムズはキャピトルのアルバム『ムーンドリームズ』でも歌っている。






(2007年5月2日 三具 保夫)
上にもどる
 

Copyright (C) シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン:本サイトで掲載の全ての記事・写真の無断転載を禁じます。