『ア・タイム・フォー・ラヴ+1』/
ディック・ノエル A Time For Love +1/Dick Noel

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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sinatra society of japan
TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『ア・タイム・フォー・ラヴ+1』/ディック・ノエル

『ア・タイム・フォー・ラヴ+1』/
ディック・ノエル
A Time For Love +1/
Dick Noel
特別価格
 (XQAM-1027)
Dink → Sounds Great
1978年/シカゴ 世界初CD化
ボーナス・トラック1曲追加
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  シカゴを中心に活躍した実力派クルーナー=ディック・ノエルが残した唯一のアルバムが、 日本で蘇る! これはもう日本でのみ起こりうるセンセーションだ。 ピアノ伴奏のみで歌った男性歌手のアルバムではベスト3に入る屈指の作品。
 


1. A Time for Love/ア・タイム・フォー・ラヴ  >>試聴
2. The Girl Next Door/ザ・ガール・ネクスト・ドア  >>試聴
3.Emily/エミリー  >>試聴
4. My One and Only Love/マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ  >>試聴
5. My Own Space/マイ・オウン・スペース  >>試聴
6. My Melancholy Baby/マイ・メランコリー・ベイビー  >>試聴
7. Why Did I Choose You?/ホワイ・ディド・アイ・チューズ・ユー?  >>試聴
8. Once upon a Summertime/ワンス・アポン・ア・サマータイム  >>試聴
9. Send in the Clowns/悲しみのクラウン  >>試聴
10. Here's That Rainy Day/ヒアズ・ザット・レイニー・デイ  >>試聴
11. Ballad of the Sad Young Men/バラード・オブ・ザ・サッド・ヤング・メン  >>試聴

 

 『ア・タイム・フォー・ラヴ』+1は、シカゴを拠点に活躍したディック・ノエルがラリー・ノヴァクのピアノ伴奏で歌った、ロマンティックこの上ないバラード集である。伴奏者ひとりだけで歌うというのは相当の実力と勇気がないとなかなか出来るものではないが、ノエルの歌はリスナーの内に素直な共感と深い感動を呼び起こさせてくれる。男性シンガーとピアニスト・オンリーのアルバムといえば、トニー・ベネットとビル・エヴァンスの2枚の共演盤(ファンタジーとインプロヴ)がまず思い浮かぶが、ラルフ・シャロンと吹き込んだ、歌に勢いのある『トニー・ベネット・シングズ・フォー・トゥー』(コロンビア)のほうが上位に来るし、ノエルの本作の出来栄えはそのシャロン共演盤に勝るとも劣らない。

 しかし、ディック・ノエルと言われても“?”という方が多いことだろう。Dick Noeldechenは1927年5月30日にニューヨークのブルックリンで生まれたドイツ系のアメリカ人で、中学生の頃はアコーディオンとトランペットを習っていた。高校に入ると楽団を組んで歌い始めたが、第二次大戦の勃発で兵役にとられ日本にも駐留した。除隊後はニューヨークに戻って、アンディ・ウィリアムズやスティーヴ・ローレンス、イーディ・ゴーメらを教えた有名なヴォーカル・コーチのフレッド・スティールについて学んだが、ノエルの才能にほれ込んだスティールは金に困っていたノエルから一銭も受け取らず2年間教えたという。ノエルの歌に影響を与えたのは、フランク・シナトラとフレッド・スティールである。
 1947年にアーサー・ゴッドフリーのタレント・スカウト・ショウで優勝し、このラジオ・ショウに数週間出演したことで、プロのシンガーとしての本格的なスタートを切った。ロングアイランドのクラブ「カーサ・セビリア」で歌っている所を人気トランペッター&バンドリーダーのレイ・アンソニーの夫人に認められ、彼女の紹介でレイ・アンソニー楽団に迎えられた。同楽団在籍中に初レコーディングも経験し、中から数枚のヒット・レコードも生まれている。
 続いてラジオやTVの人気パーソナリティーのフラン・アリソンに気に入られたノエルは、シカゴに行きドン・マクニールの『ブレックファスト・クラブ』という人気ラジオ・ショウで歌い、そのあとサンフランシスコでテネシー・アーニー・フォードのTVショウに1年半ほど出演したが、シカゴ滞在時に始めたジングル(ラジオやTVコマーシャル用に作られた楽曲)の仕事をまたやりたくなってシカゴに戻り、結局定住してしまった。
 ディック・ノエルはアメリカ人が最も耳にしている男性シンガーかも知れない。ユナイテッド航空やマクドナルドといったナショナル・ブランドを始めとして、彼がこなしたジングルの数は15,000に及ぶという。ノエルの名前や顔は知らなくても、彼の声に聞き覚えのあるアメリカ人はたくさんいるはずだ。ノエルはまた、ディック・ノエル・シンガーズを結成してチェス・レーベルのバックコーラスとしても活躍し、クレジットはされなかったが宗教音楽専門レーベル用の膨大な数のレコーディングにも参加した。

 ディック・ノエルはコマーシャル畑の仕事に忙しくまたそれを大いに楽しんできたため、自分のためにレコーディングする機会を逸してしまった。これは才能豊かで確かな歌を聴かせるシンガーだけに実に残念なことだが、それでも1978年に唯一のリーダー作を残してくれた。コマーシャルの仕事でよく一緒になるピアニストのラリー・ノヴァクは「ジングルは歌ってもせいぜい30秒。これでは完全燃焼出来ないし、ちゃんと歌えるのだからもったいない。1曲1曲をしっかり歌ったリーダー・アルバムを作るべきだ」と何度となく進言していたが、ある日の午後ジングルのためにスタジオで顔を合わせたノエルからいきなり「今夜一緒にアルバムを吹き込もう」といわれた。その夜慌しくスタジオ入りしたふたりは午後9時から翌朝の午前4時にかけてレコーディングしたが、事前のリハーサルはなかったし、選曲はすべてノヴァク任せだった。よって、ノエルにとってまったく知らない歌もいくつかあったのだが、そのような気配を感じさせるトラックはひとつとしてない。ノエルの実力のほどを垣間見る思いだ。

 オリジナルLP『ア・タイム・フォー・ラヴ』(Dink DNS-0501)はディック・ノエルの手でその年のうちに自費出版され、地元シカゴでは有名人だったこともあり5,000枚から6,000枚売れたという。その時の収録曲は8曲だったが、このアルバムを聴いていたく気に入った西海岸のプロデューサーのウェイン・ナイトは1984年、JをはずしACGを加えて自分のレーベルSounds Greatから10曲入りのLPとしてリリースした(SGS-5002)。Sounds Great盤の裏ジャケットには「1978年11月9日、16日、12月21日シカゴ録音」と記されているが、ノエルは初日の11月9日に全曲録音したと主張している。Sounds Great盤のライナーノーツはメル・トーメだが、これはナイトとノエルがスタジオでマスタリングしているところにナイトの親友のトーメが立ち寄り、アルバムの素晴らしさに感激してライナーの執筆を自ら申し出たからだという。

 アルバム『ア・タイム・フォー・ラヴ』の選曲とピアノを担当したラリー・ノヴァクは、ディック・ノエル同様今もシカゴで健在である。シカゴに生まれ生涯のほとんどをシカゴで暮らしてきたが、シナトラやトーメのほかに、サラ・ヴォーンやディーン・マーティン、シャーリー・マクレーン、デビー・レイノルズらの伴奏をつとめ、ペギー・リーとは1年半一緒だった。また、3年間「ロンドン・ハウス」でピアニストとして働いた後、13年間にわたって「ミスター・ケリーズ」の音楽監督兼ピアニストとしてこのクラブに去来した多くのジャズ・ジャイアンツたちと共演した。
 


【 曲目 】

@ア・タイム・フォー・ラヴ
 ポール・フランシス・ウェブスターが作詞、ジョニー・マンデルが作曲して、ジャネット・リーが主演したノーマン・メイラーの小説『アメリカの夢(An American Dream)』を映画化した『殺しの逢びき』(1966)に使われ、アカデミー主題歌賞にノミネートされた。ウェブスターとマンデルのコンビは前年に「いそしぎ」で同賞を受賞している。

Aザ・ガール・ネクスト・ドア
 1944年のミュージカル映画『若草の頃』のためにヒュー・マーティンとラルフ・ブレインが作り、ジュディ・ガーランドが歌った片思いの歌。その時は「ザ・ボーイ・ネクスト・ドア」だが、男性が歌うと「ガール」となる。

Bエミリー
 これもジョニー・マンデルの作曲で、作詞はジョニー・マーサー。ジュリー・アンドリュースが主演した映画『卑怯者の勲章』(1964)に使われた。マーサーから“メロディーが「スカイラーク」に似ている”と非難されてマンデルは驚いたとか。その後ふたりは仕事をしていない。ノエルはところどころ、この歌を得意としていたアンディ・ウィリアムズを感じさせる瞬間がある。

Cマイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ
 1953年にロバート・メリンが作詞、ガイ・ウッドが作曲した。日本ではジョニー・ハートマンのインパスル盤が人気だが、アメリカでは創唱したフランク・シナトラのキャピトル盤がヒットした。

Dマイ・オウン・スペース
 フレッド・エブ(作詞)とジョン・キャンダー(作曲)のコンビの作品。1977年にブロードウェイのマジェスティック劇場で開幕し233回続いたミュージカル『ジ・アクト』で、ライザ・ミネリが紹介した。

Eマイ・メランコリー・ベイビー
 1911年にジョージ・A・ノートンとメイベル・E・ワトソンが作詞、アーニー・バーネットが作曲した。1910年代の歌は今となっては古臭い曲が多いが、この作品は今聴いても魅力溢れるしっとりとした歌だ。

Fホワイ・ディド・アイ・チューズ・ユー?
 ハーバート・マーティンが作詞、マイケル・レナードが作曲した、1965年のブロードウェイ・ミュージカル『ザ・イヤーリング』からの曲で、このプロダクションは3回で閉幕したが、開幕前にバーブラ・ストライザンドがレコーディングしている。このミュージカルの曲では「アイム・オール・スマイル」のほうが比較的知られている。

Gワンス・アポン・ア・サマータイム
 1954年にエディ・マルネーが作詞、ミシェル・ルグランとエディ・バークレー(仏バークレー・レコードの設立者)が作曲したシャンソンで、英詞は1962年にジョニー・マーサーが書いた。トニー・ベネットのコロンビア盤がいい味を出していた。

H悲しみのクラウン
 スウェーデン映画の巨匠イングマール・ベルイマンの『夏の夜は三たび微笑む』(1955)を翻案した、1973年のブロードウェイ・ミュージカル『ア・リトル・ナイト・ミュージック』のために、スティーヴン・ソンドハイムが作詞作曲した。難曲として有名だが、シナトラやサラ・ヴォーンにいいレコードがある。

Iヒアズ・ザット・レイニー・デイ
 1953年のブロードウェイ・ミュージカル『カーニヴァル・イン・フランダース』のために、ジョニー・バークが作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンが作曲したが、このミュージカルは6回で閉幕した。シナトラが1959年のアルバム『ノー・ワン・ケアーズ』(キャピトル)で復活させてスタンダード曲となっている。

Jバラード・オブ・ザ・サッド・ヤング・メン
 フラン・ランズマンが作詞、トミー・ウルフが作曲した1959年の歌。ステージ・ミュージカルの『ザ・ナーヴァス・セット』でタニ・サイツが紹介したが、23回で閉幕。アニタ・オデイがアルバム『オール・ザ・サッド・ヤング・メン』(ヴァーヴ)で、スティーヴ・ローレンスが『スティーヴ・ローレンス・シングズ・オブ・ラヴ・アンド・サッド・ヤング・メン』(コロンビア)で歌っている。






(2007.11.2. 三具保夫)
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