『スモーキー・アンド・インティミト/フロ・ハンディ』/
フロ・ハンディ Smoky And Intimate/Flo Handy

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『スモーキー・アンド・インティミト』/フロ・ハンディ

『スモーキー・アンド・インティミト』/
フロ・ハンディ
Smoky And Intimate/
Flo Handy
特別価格
 (XQAM-1029)
原盤:Carney
録音: 1964年/ニューヨーク 知る人ぞ知る、通好みの粋な女性シンガー、日本初登場。
あのエラ・メイ・モーズの妹にして、アル・コーン(ts)夫人、唯一のアルバム
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  ニューヨークのジャズ・シーンでマイペースで歌っていた実力派による唯一のアルバム。もちろん日本初登場。 ジョージ・バーンズ、カール・クレスというジャズ・ギターの職人的名手だけの伴奏で歌った、 文字通りインティミトでしっとりと落ち着いた隠れ名盤。
 


1. Compromise/コンプロマイズ  >>試聴
2. No Moon at All/ノー・ムーン・アット・オール  >>試聴
3.My Heart Stood Still/マイ・ハート・ストゥッド・スティル  >>試聴
4. I Hadn't Anyone till You/アイ・ハドゥント・エニワン・ティル・ユー  >>試聴
5. Fine and Dandy/ファイン・アンド・ダンディ >>試聴
6. Lack-a-Day /ラック・ア・デイ  >>試聴
7. Funny World/ファニー・ワールド  >>試聴
8. A Sunday Kind of Love/ア・サンデイ・カインド・オブ・ラヴ  >>試聴
9. Who Can I Turn to?/フー・キャン・アイ・ターン・トゥ?  >>試聴
10. How Long Has This Been Going On?/ハウ・ロング・ハズ・ジス・ビーン・ゴーイング・オン?  >>試聴
11. Wait with Me Love/ウェイト・ウィズ・ミー・ラヴ  >>試聴
12. Mine/マイン  >>試聴

 

 フロ・ハンディ、といわれても首を傾げる方が多いのではなかろうか?知名度は低いし、リーダー・アルバムは唯一この『スモーキー・アンド・インティミト』だけである。
 彼女を手っ取り早く紹介するならエラ・メイ・モーズ(1924〜1999)の妹ということになるが、「カウ・カウ・ブーギー」や「ザ・ブラック・スミス・ブルース」の大ヒットを飛ばしたエラ・メイ・モーズも、日本では「エラ・メイって誰?」だろう。しからば、アル・コーン(1925〜1988)ならご存知だろう。ズート・シムスとの2テナー・コンビで活躍した人気プレーヤーだが、フロはアル・コーン夫人だった。しかし、彼女の経歴やシンガーとしてのキャリアははっきりしない部分が多い。
 フロ・ハンディは高校を出るとすぐにジョージ・ハンディ(1920~1997)と結婚し、家庭に入った。家はニューヨークかその近郊にあったと思われる。ジョージは1940年代後半もっとも前衛的だったボイド・レイバーン楽団のチーフ・アレンジャーだった人だ。1950年代の中ごろジョージと離婚したフロは歌で生計を立てていこうとスタジオのセッション・シンガーとなり、その後クラブで歌うようになった。
 1960年ごろにはステージ・シンガーとしてかなりのポジションを確立していたが、1963年にアル・コーンと結婚すると、NYCでの生活が嫌になった彼の希望でポコノス(ニューヨークから車で2時間ほどの、ペンシルバニア州北東部の山岳地帯に位置するリゾート地)に引っ込んでしまった。ポコノスや周辺でも定期的に歌ってはいたが、所詮ローカルな活動を越えるものではなかった。歌唱力に優れ独特の個性を持ちキャリアも上昇気流に乗っていただけに、もったいないとしかいいようがない。また、かなりの美人だったと多くの人が証言している。

フロ・ハンディの才能

 フロ・ハンディことフローレンス・モーズは1931年にヒューストンで生まれ、サンディエゴで育ち、1996年に亡くなった。エラ・メイの息子ディックによれば、1960年代以後ふたりは口をきかなくなったというし、エラ・メイの最後のマネージャーだったアラン・アイクラーはエラ・メイに妹がいることを知らなかった。
 フロは1945年14歳の時に人気ラジオ番組「Which Is Which」に出演して姉のエラ・メイが1942年に大ヒットさせた「カウ・カウ・ブーギー」を真似て歌い喝采を浴びたが、それまでもそのあとも懸命に歌を勉強した形跡はない。もともと音楽的な才能があったということだろう。彼女の音楽の才に関してはほかにもいくつかエピソードがある。
 ラトガーズ大学ジャズ研究所の責任者でジャズ評論家のダン・モーゲンスターンは1960年代の中ごろにニューヨークのジャズ・クラブでフロのピアノの弾き語りを聴いており、『スモーキー・アンド・インティミト』のアルバム以上の素晴らしさだったと述懐している。このアルバムからはわからないが、フロはピアノの弾き語りだった。
 1961年にアル・コーンとズート・シムスのグループに参加するデイヴ・フリシュバーグはコーンとデイトしていたフロを紹介された。フリシュバーグは都会的でウィットに富んだ曲作りや歌・演奏で人気のある才人だが、初めてフロのピアノを聴いた時はその上手さにたいそう驚いたという。当時フロは有名なピアノ教師のサンフォード・ゴールドのところに通っていたが、それ以前に正規のピアノ・レッスンを受けたことはなく、クラブの仕事をとるには弾き語りのほうが有利とわかり独学でピアノをマスターしていた。フリシュバーグによれば、ハーモニーの感覚とジャズ・センスが特に秀でていたという。
 フロは作曲の才能にも恵まれ、テネシー・ウィリアムズやジョン・スタインベックの散文や詩にメロディーをつけた「メゾソプラノとピアノのための歌曲全集」を創作したり、晩年にはスタインベックの『怒りの葡萄』のオペラ化も進めていた。
 その一方で、アル・コーンの朋友ズート・シムス1956年のアルバム『ズート!』(リヴァーサイド)のために「ホワイ・クライ?」「エコーズ・オブ・ユー」「スイム・ジム」「ヒア・アンド・ナウ」の4曲を提供しており、このアルバムのクインテットには当時の夫ジョージ・ハンディもピアノで参加している。
 フロは学校で音楽理論や実践の指導を受けておらず、ジョージ・ハンディが手とり足とり教えたと推測される。フロが作ったクラシカル作品を知りたい方は下記をクリックするとよい。“The Turtle”という現代音楽的なかなり長い曲を聴くことができる。 http://tinyurl.com/4fb9hh

シンガーとしてのフロ・ハンディ

 フロ・ハンディがスタイル的にビリー・ホリデイの影響を受けていることは容易に感知できるが、評論家のジーン・リーズはオリジナルLPのライナーで次のように書いている。「フロは感性的な意味においてビリー・ホリデイの後継者である。ほかのホリデイ・スタイルの歌手たちは後期のホリデイを真似しそこから一歩も出ていないが、フロはホリデイを出発点として自分のスタイルを築きあげた。たっぷりとして温かみがありスモーキーなフロの声はホリデイとは異質なものだ。フロはホリデイのほかにもいろいろなシンガーをきちんと聴いており、自分のスタイルの中に取り入れている」。
 ジーン・リーズのこの分析は的を射ていると思う。フロのレイジーなムードややや投げやりとも思えるフレージングはビリー・ホリデイに通じるが、ホリデイの歌(特に後期)の特徴である悲劇性は感じられない。フロの歌ははるかにロマンティックで、佳き時代のヴォーカルの香り、たとえば歌姫リー・ワイリーをしばしば想い起こさせてくれる。ちなみに、アル・コーンの前夫人はやはり歌手のマリリン・ムーアだが、彼女もビリー・ホリデイ派のシンガーとして知られている。
 フロのリーダー・アルバムは『スモーキー・アンド・インティミト』のみといったが、かつて幻のアルバムが存在した。それはジョージ・ハンディと1955年ごろに録音したアルバムだが、後年ジョージが何らかの理由(離婚?)で破棄してしまった。

 では、フロのレコードがほかにないかといえば、クリード・テイラーやケンヤン・ホプキンスのノヴェルティ・アルバム(ともにABCパラマウント)で何曲かフロの歌声を聴くことが出来る。

『スモーキー・アンド・インティミト』と伴奏のふたりについて

 アルバム『スモーキー・アンド・インティミト』を構想したのは、伴奏のジョージ・バーンズとカール・クレスである。ふたりは1964年に同じくカーニー・レーベルでギター・デュオのアルバムを作り成功を収めていた。二作目ではヴォーカリストを加えようと、いろいろなシンガーを紹介してもらい実際に聴いて何人か候補者を絞っていたが、ズート・シムスが教えてくれたフロ・ハンディを聴いて即座に決めたという。録音はその年のうちに行われた。

 ジョージ・バーンズは1921年生まれ。10代の時シカゴでデビューし当初はブルース・シンガーの伴奏をしていたが、1935年にジャズに転向。ギターにアンプを持ち込んだ最初期のギタリストのひとりで、ギターがソロ楽器として成り立つことを証明したパイオニアでもある。またカール・クレスと組んでギター・デュオを広めるとともにその音楽的水準を引き上げることに貢献した。1977年死去。

 カール・クレスは1907年生まれ。1920年代にニューアークでプロ活動を開始し、初期はピアノやバンジョー、テナー・ギターなどを弾いていた。ポール・ホワイトマン楽団やレッド・ニコルズのバンドでテナー・ギターを弾いたレコードを残している。1930年代に入ると6弦ギターに転向し、多くのギタリストが彼に続いた。スタジオやラジオ、TVで活躍したあと、1961年にジョージ・バーンズとギター・デュオを組んだ。1965年死去。
 



【 曲目 】

@コンプロマイズ
ニューヨーク州グリーンウッド・レイクにあったカーニー・レコードのリチャード・E・カーニー社長(*)が書いた歌詞に、アン・オシールズとデイヴッド・マーティンがメロディーをつけた歌で、出版は1965年。フロはリラックスしたムードで語りかけるように歌い出しアルバムのムードをセットする。

Aノー・ムーン・アット・オール
1949年にレッド・エヴァンスとデイヴ・マンが共作したナンバー。アップテンポで歌われることも多いが、フロはムードたっぷりにバラードで歌っている。女性らしい細やかな情感表現が見事だ。

Bマイ・ハート・ストゥッド・スティル
1927年にロレンツ・ハートが作詞、リチャード・ロジャースが作曲して、ロンドンで行われたレヴュー『ワン・ダム・シング・アフター・アナザー』で紹介された。フロは伸びやかに素直に歌う。

Cアイ・ハドゥント・エニワン・ティル・ユー
「ザ・ヴェリー・ソート・オブ・ユー」の作者でもあるイギリスのソングライター/バンド・リーダーのレイ・ノーブル1938年の作品。彼らしい端正で格調高い名曲だ。フロはついに訪れた本当の恋の喜びを絶妙の語り口で歌い綴る。

Dファイン・アンド・ダンディ
1930年にポール・ジェームスが作詞、ケイ・スウィフトが作曲した。ポール・ジェームスはケイの夫で銀行家のジェームス・ポール・ウォーバーグのペンネーム。ふたりは前年に「キャント・ウィー・ビー・フレンズ?」を作っている。フロは第1コーラスをレガートで思い入れたっぷりに歌い、第2コーラスでは表情をつけ変化を出している。

Eラック・ア・デイ
このアルバムの伴奏者のひとりジョージ・バーンズが書いた曲にアレック・ワイルダーが歌詞をつけた。いくら伴奏者が作ったとはいえ相当地味な作品だが、こういった曲を取り上げるところがクラブ・シンガーのフロらしいし、うまく歌っている。

Fファニー・ワールド
1964年のイタリアの風俗ドキュメンタリー映画『ゼロの世代』の挿入曲で、オリジナル・タイトルは“Questi Vent‘anni Miei”。「私のこの20年」といった意味だ。伊語の歌詞はフランチェスコ・トルティとグイド・カスタルド、作曲はエンニオ・モリコーネ。アラン・ブラントが英詞を書き、この映画がアメリカで公開された時タイトル・バックでジェーン・モーガンが歌った。

Gア・サンデイ・カインド・オブ・ラヴ
1946年にバーバラ・ベル、ルイ・プリマ、アニタ・レナード、スタン・ローズが共作した。ジョー・スタッフォードのキャピトル盤とフラン・ウォーレンをフィーチャーしたクロード・ソーンヒル楽団のコロンビア盤がヒットした。フロの歌はビリー・ホリデイ的な雰囲気の中にも、艶かしさがある。

Hフー・キャン・アイ・ターン・トゥ?
アレック・ワイルダーとビル・エングヴィックが1941年に発表した渋いバラード。フロの落ち着いた佇まいが、得もいえぬ味わいを醸し出している。

Iハウ・ロング・ハズ・ジズ・ビーン・ゴーイング・オン?
ミュージカル『ファニー・フェイス』のためにアイラ・ガーシュインが作詞、ジョージ・ガーシュインが作曲したが、1927年のブロードウェイ開幕の際にカットされ、翌年のブロードウェイ・ミュージカル『ロザリー』で紹介された。

Jウェイト・ウィズ・ミー・ラヴ
作曲はふたたびジョージ・バーンズで、歌詞はエヴリン・バーンズ夫人。このアルバムのための曲だろう。フロの語り口の素晴らしさに脱帽だ。ライヴで歌ったなら観客は聴き入ってしまうだろう。

Kマイン
これもアイラ・ガーシュイン作詞、ジョージ・ガーシュイン作曲で、1933年のブロードウェイ・ミュージカル『レッテム・イート・ケイク』で紹介された。Jから一転して、屈託なくソフトにスイングしてこのアルバムを閉じる。





(2008年10月8日 ビル・リード/三具保夫)
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Richard E. Carney (*): The producer of this recording and the owner of Carney Records, was a writer, producer and publisher, whose career spanned the mid 1940's to the 1980's. He worked with bands and groups such as The Dorsey Brothers, the Mills Brothers and the Chordettes, who had a hit with his "Faraway Star" in 1961. His song "Watusi for Luci" recorded with George Barnes and Carl Kress was featured at the 1963 World's Fair in New York. Carney greatly enjoyed his collaboration with the Barnes and Kress team along with Flo Handy in the creation of the "Smoky And Intimate" album. In addition to producing, one of Carney's creations, "Compromise," is included the album. He was born on June 8, 1923 in Fond du Lac, Wisconsin; he died on February 4, 1983 in Warwick, New York.

 

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