『イントロデューシング・スー・チャイルズ/スー・チャイルズ』/
スー・チャイルズ Introducing… Sue Childs/Sue Childs

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『イントロデューシング・スー・チャイルズ』/スー・チャイルズ

『イントロデューシング・スー・チャイルズ』/
スー・チャイルズ
Introducing… Sue Childs/
Sue Childs
特別価格
 (XQAM-1030)
原盤:Studio 4
録音: 1965年/イリノイ州ロック・アイランド 熱心なヴォーカル・ファンが追い求めていた垂涎盤がついに登場!
2曲でJ・R・モンテローズ(ts)が参加していることが、このアルバムの価値をさらに高めた。
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  日本で一度も出ていない超幻の名盤。ジューン・クリスティをアイドルとするスー・チャイルズ唯一の アルバムで、そのクールな語り口が堪えられない。伝説のテナー奏者J・R・モンテローズが2曲に参加。
 


1. All or Nothing at All/オール・オア・ナッシング・アット・オール  >>試聴
2. Honeysuckle Rose/ハニーサックル・ローズ  >>試聴
3.Out of Nowhere/アウト・オブ・ノーホエア  >>試聴
4. You'll Never Know/ユール・ネヴァー・ノウ  >>試聴
5. You'd Be So Nice to Come Home to/ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ >>試聴
6. Summertime /サマータイム  >>試聴
7. Lollipops and Roses/あめん棒とバラ  >>試聴
8. You Make Me Feel So Young/ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・ヤング  >>試聴
9. The Lonesome Road/ロンサム・ロード  >>試聴
10. The Girl from Ipanema/イパネマの娘  >>試聴

 

謎のアルバム『イントロデューシング・スー・チャイルズ』

 『イントロデューシング・スー・チャイルズ』は、コレクターが探し求めている幻の1枚である。コレクターズ・アイテムの必要条件は現存する枚数が少ないことつまり稀少性だが、内容がともなわなければ価値はない。このアルバムの素晴らしさは、渾身の力を込めて歌う主役スー・チャイルズの魅力とJ・R・モンテローズの参加にある。オリジナルLPがオークションや廃盤店の店頭に出れば美品だと300ドルから400ドルはするといわれている。
 スー・チャイルズのプロフィールは?JRは何故参加したか?このアルバムに関する興味は尽きないが、頼れるのはジャケット裏のライナーしかなく、そこに書かれているのは、スーがソトス兄弟のカルテットとミシガン州フリントのクラブで共演したことがこのアルバムにつながったこと。彼女がデトロイトや生まれ育ったフリントで活動していること。アルバム制作に関与したミュージシャンのごくごく簡単な紹介。以上である。

 しかし、スタジオ4のオーナーでサックス奏者のトニー・ソトスやミュージシャンらこのアルバムに関わった人々の証言や当時フリントの新聞に掲載されたインタビュー記事によって、いろいろなことがわかってきた。

J・R・モンテローズのロック・アイランド来訪

 イリノイ州ロック・アイランドに設立されたStudio 4レーベルは本作をふくめ4枚のアルバムをプロデュースした。レーベルのオーナーであるジムとトニーのソトス・ブラザースのライヴ盤『オン・ステージ』(ライナーはジーン・クルーパ)、スー・チャイルズの本作、J・R・モンテローズのリーダー作『イン・アクション』がこの順でリリースされた。もう1枚、1965年録音のアル・ジャロウの『1965』は1982年にベインブリッジからリリースされている。

 それにしてもJ・R・モンテローズがなぜイリノイ州の片田舎ロック・アイランドの超マイナー・レーベルでレコーディングしたのか、不思議な話だ。ギタリストのビル・パスクォーリがその謎を解き明かす。「人気ロック・グループのジェイ&ジ・アメリカンズがツアーの一環でロック・アイランドにもやってきた。JRはそのメンバーのひとりで、ショウが終ってグループが去ってあとも、彼だけは町にしばらく居続けた」。これは地方の小都市のジャズ関係者とっては大事件だった。彼らから見ればJRはとてつもないジャズ・ジャイアントで、町や周辺のジャズ・ミュージシャンやファンはこぞって彼を歓迎したが、その中にソトス兄弟もいた。彼らはJRにレコーディングを打診した。

スー・チャイルズへのインタビュー記事

 スー・チャイルズは1964年の11月にフリントの新聞社のインタビューに応じている。「12月にシカゴでアルバムを作る予定です。リリースは来年1月でしょう。アルバム・タイトルは『アウト・オブ・ノーホエア』(本アルバムの3曲目)にしようかと考えています」。その理由は「どこからともなく現れた無名のシンガーだから」。

 しかし何らかの理由でレコーディングは翌年まで持ち越され、録音場所もシカゴからロック・アイランドに変更された。スーは1965年の早春に第2子目の出産を予定していたのでそのころのはずだ。というのは、前述のパスクォーリ曰く。「スーは出産間近で、セッションは大変だった。身重のスーは普段と違ってブレス・コントロールやイントネーションに難儀していた。録音は夜遅くに始まって明け方には終了したが、JRはこんな状況に我慢出来ず早々に退散してしまった」。よって彼の出番は2曲しかないのだ。そういった舞台裏の混沌を知ってもう一度このレコードを聴くと、ときに感じられる粗さに納得がいく。しかし、スーの歌にはそんなことを補って余りある迫力とエネルギーがあり、このアルバムに賭ける意気込みがヒシヒシと伝わってくる。

フー・イズ・スー?

 スー・チャイルズの本名はドナ・スー・チルダーズ(Donna Sue Childers)で、ミシガン州フリントで生まれ育った。父親はローカル・ダンス・バンドを率い、母親はシンガーだった。スーは小さい頃からショウ・ビジネスに憧れジマーマン・ジュニア・ハイスクールに入ったころからステージで歌い、ノーザン・ハイスクールでは高校生コンボと組み、スー・チャイルズと名乗るようになった。1956年に高校を卒業するまでの間に全国ネットのTV番組The Ted Mack’s Amateur Hourで3回優勝している。ホストのテッド・マックはさらに上のランクのコンテストに出場するよう説得したが、高校をきちんと卒業したかったスーは応じなかった。また、番組を見たレコード会社がカントリー・シンガーとして売り出そうと何度かテスト録音を入れさせたが、契約書にサインしなかった。
 スーはデトロイトを本拠地として、同地を訪れたジミー・ドーシーやバディ・モロウ、ラルフ・フラナガン等のバンドで歌い、クリス・コナーやアル・ヒブラーのオープニング・アクトをつとめ、またニューヨークで歌うなどいろいろな経験を積んだ。デトロイトではジャズ・ドラマーのジョー・ロザノヴァと知り合い1960年に結婚してすでに息子をひとりもうけていた。インタビュー当時ジョーはドラムスとギターのインストラクターをしていた。
 スーのアイドルはジューン・クリスティだったという。確かにフレージングやイントネーション、高音をヒットする時に声が裏返るような感じがクリスティを思わせるし、ジューンより芯は太いが声質にも共通点がある。だがその一方で、服装や話し方、しぐさは極めてアニタ・オデイ風だったというから、かなりつっぱった女性だったようだ。
 スー・チャイルズは1993年1月10日に55歳で亡くなったが、デビュー・アルバム後の消息は判明していない。さらに成長する可能性を持っていただけに、1枚のアルバムで消えてしまったことはまことに残念でならない。

 最後にジャケットの裏に写っているセッションの関係者をご紹介しておこう。左から右へ、そして上へ:ジェリー・ラファーン、ブルース・アンダースン、ビル・パスクォーリ、ジム・ソトス、手前にJ・R・モンテローズ、後ろにトニー・ソトス、ゲイトン・キャヴィオラ、スーの下にシャーム・ミッチェル。

 この中で知名度が高いのは、ベーシストで後に劇場映画やTVコマーシャルの製作・監督で成功したジム・ソトス、ジムの1歳半年下でマルチ奏者、歌も達者であのルチアーノ・パヴァロッティも絶賛したトニー・ソトス、ディジー・ガレスピーやエロール・ガーナーとも共演したシャーム・ミッチェル、そしてもちろんJ・R・モンテローズである。
 



【 曲目 】

@オール・オア・ナッシング・アット・オール
1940年に出版されたジャック・ローレンスとアーサー・アルトマンの共作。1939年にハリー・ジェームス楽団の伴奏で吹き込んだフランク・シナトラのレコードが1943年に大ヒットしてスタンダードとなった。スーはリズミックなアプローチでドラマティックに歌っていく。突き放したようなフレージングが刺激的だ。J・R・モンテローズが参加している。

Aハニーサックル・ローズ
1929年にアンディ・ラザフが作詞、ファッツ・ウォーラーが作曲した。アニタ・オデイのオハコとして知られるが、たたみ込んでいくようなメロディーがスーの歌に合っている。第2コーラスのフェイクやスケールの大きさは聴きもの。この曲とHはシャーム・ミッチェルのアレンジ。

Bアウト・オブ・ノーホエア
1931年にエドワード・ヘイマンが作詞、ジョニー・グリーンが作曲し、ビング・クロスビーのデッカ盤でヒットした。このグイグイ迫るスイング感がスーの持ち味だ。ジューン・クリスティの影響を強く感じさせるトラックのひとつ。

Cユール・ネヴァー・ノウ
1943年にマック・ゴードンが作詞、ハリー・ウォーレンが作曲して、映画『ハロー、フリスコ、ハロー』(日本劇場未公開)でアリス・フェイが歌い、アカデミー主題歌賞を受賞した。ディック・ヘイムズのデッカ盤がヒット。スーはかなりストレートな歌いぶりだが、聴かせてしまうのは歌唱力のゆえか。

Dユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ
1942年にコール・ポーターが作詞作曲して、翌年の映画『サムシング・トゥ・シャウト・アバウト』でジャネット・ブレアが歌い、アカデミー主題歌賞にノミネートされた。スーはスケールの大きなインプロヴァイゼイションを展開する。ヘレン・メリルの名唱に勝るとも劣らない素晴らしい歌いぶりだ。J・R・モンテローズが参加。

Eサマータイム
1935年のフォーク・オペラ『ポーギーとベス』の中でもっとも有名なナンバー。作詞は米南部の俗語に詳しいデュボース・ヘイワード、作曲はジョージ・ガーシュイン。スローテンポでレイジーに歌われるこの歌をジャズ・ワルツで処理することで、面白い効果をあげている。

Fあめん棒とバラ
1960年トニー・ヴェローナの作詞作曲。ジャック・ジョーンズのキャップ盤が1961年度のグラミー最優秀歌唱賞を受賞した。ジェリー・ラファーンが次のアレンジを書いている15分のブレーク中に、ギターのみ1テークで完了した。パスクォーリはこの曲を知らなかったので、スーがハミングで教えたという。

Gユー・メイク・ミー・フィール・ソー・ヤング
マック・ゴードンが作詞、ジョセフ・マイロウが作曲した。1946年の映画『スリー・リトル・ガールズ・イン・ブルー』(日本劇場未公開)でヴェラ=エレンとフランク・ラティモアが歌ったが評判にならず、1956年のシナトラのキャピトル盤で俄然人気が出た。スーの乗りは天性のものだろう。この曲に関してはシナトラのレコードを研究した跡が感じられる。

Hロンサム・ロード
1928年にシンガーのジーン・オースティンが作詞、ナサニエル・シルクレットが作曲したアーシーなナンバーで、このアルバム中もっともホットでダイナミックなトラック。モダンな歌いぶりはジューン・クリスティも顔負けだ。最後に出てくる♪Look down, hey look down♪の繰り返しはランバート・ヘンドリックス&ロスの「エヴリデイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルース」(ABCパラマウント)に出てくるリフからの引用だろうが、そのオリジナルは1955年に録音されたカウント・ベイシー楽団のヴァーヴ盤でのアーニー・ウィルキンスのアレンジ。

Iイパネマの娘
1963年にヴィニシウス・ジ・モラエスが作詞(ポルトガル語)、アントニオ・カルロス・ジョビンが作曲したボサノヴァの聖典。英詞はノーマン・ギンベル。ジャケット裏のスペル違いはご愛嬌。





(2008.10.6. ビル・リード/三具保夫)
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