『イン・ザ・ムード・フォー・ア・ソング』/コーキー・シェイン』/
コーキー・シェイン In the Mood for a Song?/Corky Shayne

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『イン・ザ・ムード・フォー・ア・ソング』/コーキー・シェイン

『イン・ザ・ムード・フォー・ア・ソング』/
コーキー・シェイン
In the Mood for a Song?/
Corky Shayne
\2800 (XQAM-1040) 原盤:Salem
録音:1955年 またまた復刻、ヴォーカル・ファン垂涎の
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1. If I Only Had a Brain/イフ・アイ・オンリー・ハッド・ア・ブレイン  >>試聴
2. Bill/ビル  >>試聴
3. My Love Is a Wanderer/マイ・ラヴ・イズ・ア・ワンダラー  >>試聴
4. Back in Your Own Back Yard/バック・イン・ユア・オウン・バック・ヤード  >>試聴
5. Now More Than Ever/ ナウ・モア・ザン・エヴァー >>試聴
6. Ev'ry Time/ エヴリタイム  >>試聴
7. Autumn in New York/ニューヨークの秋  >>試聴
8. Just Squeeze Me/ジャスト・スクイーズ・ミー  >>試聴
9. I'm Glad There Is You/アイム・グラッド・ゼア・イズ・ユー  >>試聴
10. Teardrops/ ティアドロップス   >>試聴
11. I Hear a Rhapsody/アイ・ヒア・ア・ラプソディー  >>試聴
12. Two Sleepy People/ トゥー・スリーピー・ピープル  >>試聴

 

  コーキー・シェインはアルバム『イン・ザ・ムード・フォー・ア・ソング?』(Salem SLP-1)1枚で音楽シーンから去っていった、いわゆるOne Shot Wonderのひとりである。他の One Shot Wonder 同様、アルバム制作の経緯やコーキーのキャリアについての情報はほとんどなく、オリジナルLPの裏にはある程度しか書かれていない。
 生まれも育ちもシカゴで、24歳(*)。高校時代に学生バンドで歌い、その後ディック・マークス(p)に歌のレッスンを受け、彼とベイシストのジョニー・フリゴをふくむコンボでシカゴとその周辺のサパークラブやホテルで歌い、シカゴのバンドとツアーにも出た。タレント・コンテストにも積極的に応募・参加し、ローカルTV局の番組にもいろいろと出演した。
 セイレム・レーベルのオーナー、モート・ヒルマンがコーキーの存在を知ったのはまだレーベルを立ち上げる準備をしていた時期だった。シカゴのブールヴァード・レコーディング・スタジオにハル・ケイチャックを訪ねたとき、スピーカーを調整するためにたまたまかけていたのがコーキーのデモ・テープだった。ヒルマンは8小節聞いて彼女を気に入ったという。
 コーキーのバックは、シカゴの伝説的なベイシストのジョニー・ペイトが率いるカルテットで、アレンジもジョニーのペンになる。また、録音を担当したのはヒルマンがコーキーを発見するきっかけを作ってくれたハル・ケイチャックである。

 本アルバムの版権所有者である音楽界のベテランのモート・ヒルマンにコンタクトをとるのは容易だった。SSJへのライセンス契約を終えた次の仕事はアルバムに関する情報収集である。しかし50年以上も昔のレコーディングについてヒルマンが覚えていることは限られていた。
 このアルバムはコーキー・シェインにとっては唯一の作品だが、ヒルマンにとってはトランペッターとしてトミー・ドーシー楽団に参加した1947年から音楽界を去った1980年の間に関わった何百という数のアルバムの1枚でしかなく、コーキーについての記憶は曖昧だった。ヒルマンは1980年に政界に転身してニューヨーク州議会議員となったが、その前はザ・C-ノーツというコーラス・グループ(**)の一員でもあり、シカゴのセイレム・レーベルのオーナー、ジュビリーやオーディオ・フィデリティ、ミュージック・マイナス・ワンといったレーベルのプロデューサーとして経営陣に加わった。
 ヒルマンはまた、ベツレヘムにアルバムを残しているシンガー/ピアニストのジョー・デリースやポーラ・キャッスル、ジャズ・フルートのハービー・マンのパーソナル・マネージャーをつとめたこともある。しかし、以上は音楽界における彼の多彩な活動のほんの一端にすぎない。ヒルマンは現在ルース夫人とフロリダで悠々自適の生活を送っているが、今も地元の民主党のために活動している。

 ヒルマンが思い出したのは、このアルバムのプロモーション・ツアーを企画し実行したことで、地元シカゴの人気DJハワード・ミラーやマーティ・フェイのラジオ番組にも積極的に出演した。しかし、彼から得られたコーキー情報はほかに、おじがシカゴで人気のレコード店を経営していたことぐらいだった。次にコンタクトをとったのはこのアルバムでアレンジとベースを担当したジョニー・ペイトだったが、彼にとってこのセッションはすでに記憶の外だった。膨大な数のセッションをこなしてきたアーティストが半世紀以上も前のセッションやアーティストについて覚えていなくても驚くことではない。シカゴのベテラン・シンガー/ピアニストのオードリー・モリスは1950年代のコーキーを覚えており、2008年の後半、片親が共通のコーキーの妹エヴァ・シュナイダーを紹介してくれた。
 エヴァによれば、コーキーの本名はコリンで、1932年2月21日にイリノイ州で生まれ、2005年8月9日にカリフォルニア州のインディアン・ウェルズで亡くなっている。コーキーはエヴァより20歳以上も年上で、エヴァが物事を理解できる年齢に達したころには、すでに歌手活動を停止していたという。コーキーは歌を辞めてからしばらくしてシカゴからロサンゼルスに移りショウビズの仕事に携わった。アシスタント的な仕事に始まり責任ある地位にまで昇ったが、一貫して裏方の仕事に徹したという。コーキーはユージン・ウィレッジという人物と結婚した。私生活・結婚生活についてそれ以上の情報は得られなかったが、ある時期からゴルフに熱中するようになり、パームスプリングスに引っ越しゴルフ三昧の生活を送ったという。
(ビル・リード)

 (*)コーキーは1932年生まれだから、アルバムを吹き込んだ1955年では22歳か23歳だ。ヒルマンが24歳といっているのは、ライナー執筆時の歳だろう。女性シンガーの場合、実年齢より若く紹介しても、逆はまずありえない。
(**)ザ・C-ノーツが1950年に吹き込んだデモ・レコードを聴くことができる。
http://www.box.net/shared/qi90nasebd



【 曲目 】

@ イフ・アイ・オンリー・ハッド・ア・ブレイン
1939年にE・Y・ハーバーグが作詞、ハロルド・アーレンが作曲して、「虹の彼方に」だけがやけに有名なミュージカル映画『オズの魔法使い』で、レイ・ボルジャーが歌った。冒頭から、コーキーのリラックスした歌声とフレージングに引き込まれる。

A ビル
P・G・ウォドハウスが作詞、ジェローム・カーンが作詞して、ミュージカル『オー、レイディ!レイディ』(1918)に使われる予定だったが、開幕直前にカットされた。1927年に出版されたあと、ブロードウェイ・ミュージカル『ショウ・ボート』(1929)のオーディションを受けに来たヘレン・モーガンにピッタリということで、ようやく陽の目をみた。『ショウ・ボート』のための新曲はすべてオスカー・ハマースタイン2世が作詞したため、この歌もハマースタインがクレジットされているが、彼は関与していない。

B マイ・ラヴ・イズ・ア・ワンダラ
「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を書いたバート・ハワード、1952年の作品。ポーシア・ネルソンが創唱して、レビュー『ジョン・マレイ・アンダーソンズ・オールマナック』(1953)ではポリー・バーゲンが歌ったが、なじみの薄い曲だ。

C バック・イン・ユア・オウン・バック・ヤード
アル・ジョルスンがビリー・ローズ、デイヴ・ドライヤーと共作したナンバーで、出版は1928年。当初のタイトルは「イッツ・ノーバディズ・フォールト・バット・マイン」で、現在とは違う歌詞で歌われた。ヒットさせたのはジョルスン自身。ここまでバラードが続いたが、コーキーは一転して力強くにスイングする。

D ナウ・モア・ザン・エヴァー
キャリソンとブラッドレイが作者としてクレジットされている。ふたりについて、曲について詳細は不明だが、LPのライナーによれば、コーキーのためのオリジナル曲。

E エヴリタイム
ヒュー・マーティンとラルフ・ブレインのコンビが1941年に発表した作品。ブロードウェイ・ミュージカル『ベスト・フット・フォーワード』でモリーン・キャノンやローズマリー・レインが歌い、ルシール・ボールが主演した1943年の映画化(日本劇場未公開)ではヴァージニア・ウェイドラーが歌った。Cと違い、ミディアム・テンポでリラックスしてスイングするが、こちらのほうがコーキーの持ち味が出ている。

F ニューヨークの秋
このアルバムの中でもっとも知られているナンバーで、ニューヨークを歌った最高に美しい曲。ヴァーノン・デュークが作詞作曲して、1934年のレビュー『サムズ・アップ』で紹介された。歌うには屈指の難曲といわれる。

G ジャスト・スクイーズ・ミー
デューク・エリントンが作曲した「サトル・スラフ」という作品にリー・ゲインズが歌詞をつけて1946年に出版された。独特のスイング感を醸し出す人気曲。コーキーもいい乗りでスイングする。

H アイム・グラッド・ゼア・イズ・ユー
1941年にポール・マデイラとアルト奏者でバンド・リーダーのジミー・ドーシーが作詞作曲。ジミー・ドーシー楽団のデッカ盤がヒットしたあと、バラード・シンガーが積極的に取り上げるようになった。

I ティアドロップス
この曲もコーキーのためのオリジナル。ビル・ホーストマンが作詞し、レーベル・オーナーのモート・ヒルマンが作曲したナンバー。

J アイ・ヒア・ア・ラプソディー
ジョージ・フラゴス、ジャック・ベイカー、ディック・ガスパールによる1940年のナンバーで、ジミー・ドーシー楽団のデッカ盤がヒットした情熱的なバラード。コーキーは意表をついてアップテンポで歌うが、やや平板になってしまったのは惜しまれる。バラード中心のアルバムなので、バランス上スインギーに歌ったのだろうか? 味のあるバラードを聴かせるだけにスローなテンポで歌ってほしかった。

K トゥー・スリーピー・ピープル
1938年にフランク・レッサーが作詞、ホーギー・カーマイケルが作曲して、映画『サンクス・フォー・ザ・メモリー』(日本未公開)でボブ・ホープとシャーリー・ロスが歌った。ちなみに、この映画のタイトル曲はアカデミー主題歌賞を受賞している。



2009.9.18. 三具 保夫
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