『ハイライツ・フロム・ザ・フレッド・アステア・ショウ』/フレッド・アステア』/
 

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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sinatra society of japan
TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『ハイライツ・フロム・ザ・フレッド・アステア・ショウ』/フレッド・アステア

『ハイライツ・フロム・
ザ・フレッド・アステア・ショウ』/
フレッド・アステア
Highlights From The Fred Astaire Shows/
Fred Astarie
\2,800 (XQAM-1057)
録音:1958/1959/1960年 日本初登場
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フレッド・アステアが1958〜60年、年に一度出演したTVショウから映像なしでも楽しめるトラックを厳選したサントラ盤。アステアの歌やカウント・ベイシー楽団の演奏は全て収録。
 


1. Morning Ride/モーニング・ライド(オープニング)    >>試聴
2. Change Partners/チェインジ・パートナーズ  >>試聴
3. Baubles, Bangles, and Beads/ビーズと腕輪  >>試聴

4. Mack the Knife/マック・ザ・ナイフ  >>試聴

5. St. James Infirmary/セント・ジェームス病院  >>試聴

6. Fred Astaire Medley #1/フレッド・アステア・メドレー#1  >>試聴
7. Isn't This a Lovely Day/イズント・ジス・ア・ラヴリー・デイ  >>試聴
8. Like Fast/ライク・ファスト(オープニング)  >>試聴

9. The Afterbeat/アフタービート  >>試聴

10. That Face/ザット・フェイス  >>試聴
11. My Blue Heaven/マイ・ブルー・ヘヴン  >>試聴
12. A Gal in Calica/ア・ギャル・イン・キャリコ  >>試聴
13. Night Train/ナイト・トレイン  >>試聴
14. Fred Astaire Medley #2/フレッド・アステア・メドレー#2  >>試聴
15. Romeo and Juliet Overture/『ロメオとジュリエット』序曲  >>試聴
16. Miss Otis Regrets/ミス・オーティス・リグレッツ  >>試聴
17. Not Now, I'll Tell You When/ナット・ノウ、アイル・テル・ユー・ホエン  >>試聴

18. Sweet Georgia Brown/スウィート・ジョージア・ブラウン  >>試聴

19. It's a Wonderful World/イッツ・ア・ワンダフル・ワールド  >>試聴
20. Blues Medley/ブルース・メドレー  >>試聴
21. Fred Astaire Medley #3/フレッド・アステア・メドレー#3  >>試聴
22. Anitora's Shuffle/「アニトラ」のシャッフル  >>試聴

 

              ダンスと歌に共通するフレッド・アステアの資質

評論家の野口久光氏が特集誌『フレッド・アステア』(芳賀書店・1992年)に寄せた解説が、フレッド・アステアのダンスの本質を的確に伝えている。

「ショウ・ダンサーの多くはダンス・テクニックを売り物にしている人が多く、とくにアクロバティックなテクニックを強調しているダンサーが多い」とアクロバティックなダンスで人気のあった黒人兄弟ニコラス・ブラザースを引き合いに出したあとに続ける。「アステアという人はそういうアクロバティックな踊りをみせたことがない。アクロバットに類するテクニックを見せようという考えがない。彼が目指しているのは優れた演奏家が演奏する音楽のような、曲に愛情をこめ、充分解釈をした上の心をこめた演奏のような踊りなのである。その歌ごころを踊りという肉体によって表現することを目指している。アステアの踊りはまさに最高の歌唱、演奏を思わせる。アステアに与えられた振付で踊ることのできるダンサーはほかにもいる。しかしアステアの踊りにならないのはその歌ごころと品格に及ばないということであろう。その品格はその人の人柄、教養、趣味のよさ、ダンスの目指すほんとうの意味、それを心と身体で表現するための精神的な取組み方に鍵があり、秘訣なのだと思う。そのすばらしさを表現する言葉は見つからない。アメリカの有名なポピュラー・ソング“Too Marvelous for Words”そのものである」。

世界初のトーキー映画でもある『ジャズ・シンガー』(1927)が生まれてから90年近い歴史を持つミュージカル映画からはジーン・ケリーやジュディ・ガーランド、ジュリー・アンドリュースといったメガ・スターが現れたが、その頂点に立つのがフレッド・アステアである。
アステアのダンスには「洗練」「気品」「寛ぎ」「律動」といった言葉が相応しいが、常に新しいプロットや振付のアイディアに挑戦し、ひとつのダンス・シーンのリハーサルに何週間も費やす努力の人でもあった。
「洗練」「気品」「寛ぎ」「律動」はアステアの歌にもそのまま当てはまる。スクリーンを観ているとどうしてもダンスに心を奪われてしまうのか、アステアの歌唱力が正当に評価されているとはいえない。ジャズ・センスとリズム感覚に裏打ちされた洒脱でスマートな歌は、オスカー・ピーターソン(p)やチャーリー・シェイヴァース(tp)らをバックに歌った4枚組のLP『ザ・フレッド・アステア・ストーリー』(1952/クレフ⇒ヴァーヴ)に刻まれている。アステアはシンガーとしても一流だったし、男性ジャズ・ヴォーカルの第一人者メル・トーメに大きな影響を与えたことは広く知られている。

ブロードウェイからハリウッドへ

フレッド・アステア(Frederick Austerlitz, Jr.)は1899年5月10日にオーストリアからの移民二世としてネブラスカ州オマハで生まれた。幼少からダンスに才能を発揮した2歳年上の姉アデールと一緒に母のアンに連れられてニューヨークへ出て、苦労の末ヴォードヴィルからブロードウェイのミュージカルへと進出してスターの座を獲得する。
常にスポットが当たっていたアデールが1932年に英国の貴族と結婚し引退したため、アステアはキャリアの建て直しを迫られる。そんな折RKOから映画出演のオファーがありハリウッドに赴くが、予定されていた『空中レヴュー時代』(1933)のクランクインが遅れ、時間つなぎにMGMに貸し出され『ダンシング・レディ』(1933)に本人の役で出演するが、それほどの印象は残さなかった。そして、『空中レヴュー時代』。小手調べの脇役扱いだったが、ジンジャー・ロジャースと踊った「キャリオカ」が大評判となり、以後ジンジャーとのコンビで次々にヒット作品を放っていく。
この映画は振付師ハーミズ・パンとの出会いというひとつの幸運をもたらした。アステアとジンジャーがお互い腕を組んだり離したりしながら額をピッタリとつけて踊る「キャリオカ」はハーミズのアイディアだが、ダンスに対する考え方だけでなく顔や頭、背格好もアステアそっくりで、以後ハーミズはアステアの映画に深くかかわっていく。
アステアは、一発勝負の舞台と違い、映画は満足がいくまで何度でも撮れる利点に注目する。自分の顔は映画向きではないと気を揉んでいたが、『空中レヴュー時代』の評判がよかったこともあり、完璧主義を貫くため二度とブロードウェイへ戻らなかった。

そしてテレビへ

アステアはTV出演に消極的だったが、バリー・チェイスとの出会いが彼の考えを変えた。アステアがリハーサルをしていたホールの隣でおこなわれていたジーン・ケリー主演のミュージカル映画『魅惑の巴里』(1957)の練習を覗いたとき、ひとりの若い女性ダンサーの動きが目にとまる。それがチェイスで、「この娘となら踊れる」と思ったという。
そして、1958年。クライスラーが3本のTVショウをオファーしてきたとき、ついに出演を承諾した。チェイスがいれば、いい番組になると確信したからだ。アステアは、すべてがダンスか音楽シーンで、よくあるお笑いトークはいれない、昔の映画のシーンの再現はやらない、ジャズで踊るシーンをつくるという条件を出す。第一回目の放映で、アステアはほとんどのシーンをライヴで演じオンエアし、評論家や視聴者から絶賛を受けたが、視聴率はそれほどよくなかった。リッキー・ネルソンをゲストに迎えて視聴率を稼ぎたかったスポンサーはブツブツ云ったが、翌年5月のエミー賞で9部門を制し、再放送では高視聴率をマークする。
翌59年さらに60年のショウも高い評価を得たが、そのあとは1968年2月7日に、やはりNBCの『ザ・フレッド・アステア・ショウ』に出演している。共演は再びバリー・チェイスで、セルジオ・メンデスとブラジル66やサイモンとガーファンクルを迎え、ニール・ヘフティが音楽監督をつとめた。

本アルバムは1958年、59年、60年に制作・放映されたフレッド・アステアのミュージカルTVショウのサウンドトラックから、映像がなくても音楽として楽しく鑑賞できるトラックを厳選したものである。毎回最後にメドレーで歌われるアステアの歌を中心に、ゲストのジョナ・ジョーンズ・カルテットの歌と演奏、カウント・ベイシー楽団の演奏、ジョー・ウィリアムズの歌、さらにショウ全体を支える名編曲・指揮者デイヴィッド・ローズのオーケストラ演奏などで構成されている。
今回の見開きジャケットにあしらわれた3枚のビジュアルは、当時スポンサーのクライスラー社の販売促進用に制作されたショウのオリジナル・サウンドトラックLPのカバーである。

アステアを支える出演者たち

ショウに登場するあるいはバックで支えるアーティストのプロフィールをご紹介するが、カウント・ベイシーについてはその必要はないだろう。

バリー・チェイス
1933年10月30日生まれ。ニューヨークのロングアイランド出身のダンサー/俳優。父は映画の脚本家。アステアのTVショウで3年連続してパートナーをつとめて注目を集めた。それ以前は『ブリガドゥーン』(1954)、『キスメット』(1955)、『夜の豹』(1957)、アステアが主演した『絹の靴下』(1957)ほかのミュージカル映画にクレジットのない端役で出演している。1960年代に入ると『おかしな、おかしな、おかしな世界』(1963)や『飛べ、フェニックス』(1965)など劇映画にも出演したが、1972年に引退。

ジョナ・ジョーンズ
1909年12月31日ケンタッキー州ルイスヴィル生まれの黒人トランペッター/ヴォーカリスト。リヴァーボートで修行を積み、1932年にスタッフ・スミスとコンビを組んだ。ジミー・ランスフォード、ベニー・カーター、フレッチャー・ヘンダーソン、キャブ・キャロウェイなどの楽団に参加し、1950年代に入るとカルテットを結成して、ルイ・アームストロングのスタイルを洗練させ白人をふくむ多くのファンを獲得した。キャピトルの2枚のアルバム『ミューテッド・ジャズ』と『スウィンギン・オン・ブロードウェイ』はともにビルボードのアルバム・チャートで7位にランクされた。2000年4月29日死去。

ジョー・ウィリアムズ
1918年12月12日、ジョージア州コーディール生まれの黒人男性歌手。強靭なノドと深いブルース・フィーリングを活かしたスケールの大きな歌で、カウント・ベイシー楽団に去来したシンガーの中でもっとも成功をおさめた。幼少のときシカゴに移ったのち10代で歌い始め、ライオネル・ハンプトンやコールマン・ホーキンスのバンドで歌い、1954年カウント・ベイシー楽団に迎えられ、「エヴリ・デイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルース」がヒットしてスターとなった。1961年に独立したが、しばしばベイシー楽団に客演した。ヴァーヴやルーレット、RCAなどからレコードを発表し、ブルース・シンガーからジャズ・シンガーへ、晩年はバラードに独自の境地を拓いてテラークから優れたアルバムを発表し国民的なスタンダード・シンガーとして大成した。1999年3月29日逝去。

デイヴィッド・ローズ
1910年6月15日にロンドンで生まれたソングライター、作曲家、編曲家、指揮者、ピアニスト。4歳で一家とシカゴに移住し、16歳でプロの世界に入った。ハリウッドを拠点にオーケストラを結成して映画やレコードの世界で活躍し、キング・オブ・ストリングスと呼ばれた。テレビの仕事も多く、エミー賞を4度受賞している。テレビでの代表作は『ボナンザ』と『大草原の小さな家』。シングル盤のヒットもあり、自作の「ホリデイ・フォー・ストリングス」(1944)はビルボード2位、「ザ・ストリッパー」(1962)はトップに立っている。1941〜1944年、ジュディ・ガーランドと結婚していた。1990年8月23日死去。

ハーミズ・パン
1909年12月10日テネシー州メイフィス生まれの振付師、ダンサー。妹のヴァッソもダンサー。父親はギリシャで生まれ駐米領事としてメインフィスに赴任した。母親はアイルランド系のアメリカ人。12歳のときに父親が亡くなり窮乏するが、ニューヨークの街で黒人の少年たちのダンスを覚え、ブロードウェイで仕事をするようになり、1930年にジンジャー・ロジャースと知り合っている。一家は映画に期待を寄せてロスに移り、ハーミズはダンサーとして映画に出演する。『空中レヴュー時代』をきっかけにアステアとのコラボレーションが始まり、振付師として16本のアステアの映画にクレジットされるが、アステアとパンの協力関係は緊密で振付はふたりの共同作品といえる。アステア最後のミュージカル映画『フィニアンの虹』(1968)で監督のフランシス・コッポラから振付が時代遅れだと首になったのを機に引退した。アステア主演の『踊る騎士』で1937年度のアカデミー賞ダンス監督賞を、アステアの1958年のTVショウでエミー賞を受賞している。1990年9月19日逝去。

曲目解説

                『アン・イヴニング・ウィズ・フレッド・アステア』

1. モーニング・ライド(オープニング)
デイヴィッド・ローズのオリジナルで幕が上がる。フレッド・アステアの脚とシューズのアップで始まり、カジュアルなジャケット姿の全体像へとカメラが引いていく。

2. チェインジ・パートナーズ
アーヴィング・バーリンの作詞作曲。ミュージカル映画『気儘時代』(1938)で恋敵と踊るジンジャー・ロジャースに近づいたアステアが切なく歌い、アカデミー主題歌賞にノミネート。

3. ビーズと腕輪
ロシアの作曲家ボロディンが書いたクラシック「弦楽四重奏曲第二番」の一節をもとに、1953年にロバート・ライトとジョージ・フォレストが書いて、ブロードウェイ・ミュージカル『キスメット』で紹介された。ジョナ・ジョーンズ・カルテットによる演奏。

4. マック・ザ・ナイフ
1928年ベルトルト・ブレヒト作詞(独語)、クルト・ワイル作曲。原題は「モリタート」。1952年にマーク・ブリッツスタインが英詞を書いて、サッチモやエラ、ボビー・ダーリン、シナトラらのレコードがヒットした。サッチモに対するジョナの傾倒ぶりを示す選曲。

5. セント・ジェームス病院
これもサッチモのレコードで有名。ジョー・プリムローズ1928年の作品となっているが源流は英国の民謡だという。デューク・エリントンの作品に多数歌詞をつけたアーヴィング・ミルズが別名を使ったのはその辺りに理由が?ジョナのカルテットのブルージーな歌と演奏をバックに、アステアとバリー・チェイスがメランコリックなムードで踊る。

6. フレッド・アステア・メドレー #1
タキシード姿でストゥールに腰掛け、リラックスした表情で往年のヒット曲を歌うが、アステアが創唱したスタンダード曲がいかに多いか再確認することになる。
オー・レイディ、ビー・グッド
アイラ・ガーシュイン作詞、ジョージ・ガーシュイン作曲。ガーシュイン兄弟初の共同作品で、アステア姉弟がブロードウェイで真のスターになった記念碑的な作品『レイディ、ビー・グッド!』(1924)で紹介された。
チーク・トゥ・チーク
アーヴィング・バーリン作詞作曲。映画『トップ・ハット』(1935)でジンジャーと踊りながらアステアが歌い、 アカデミー主題歌賞にノミネート。アステアは踊っている間、ジンジャーのドレスの羽が降りかかってきて
苦労したという。
ア・ファイン・ロマンス
ドロシー・フィールズ作詞、ジェローム・カーン作曲。映画『有頂天時代』(1936)の雪の中で、アステアとジンジャーがお互い皮肉を込めて歌い合った恋の歌。
誰も奪えぬこの想い
アイラ・ガーシュイン作詞、ジョージ・ガーシュイン作曲。映画『踊らん哉』(1937)でアステアが歌って、アカデミー主題歌賞にノミネート。フレッド&ジンジャーの最後の、そして唯一のカラー共演作『ブロードウェイのバークレー夫妻』(1949)でも歌った。
ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット
これもガーシュイン兄弟の作品。歌もダンスもダメなジョーン・フォンテインが共演した映画『踊る騎士』(1937)でアステアがドラムスを叩きドラムスを相手に踊りながら歌った。
霧深き日
ガーシュイン兄弟の作品。歌詞からは霧の立ち込めるロンドンで歌われるシーンを想像するが、『踊る騎士』でアステアが歌ったのは古城に続く庭園だった。
アイ・ウォーント・ダンス
オットー・ハーバックとオスカー・ハマースタイン2世作詞、ジェローム・カーン作曲。映画『ロバータ』(1935)でアステアがジンジャーとコミカルに歌い、踊りたがらないアステアは最後に素晴らしいステップを踏む。ここでは最後のほうで一瞬 “hold” を “ask” と間違えるが、ライヴならではのご愛嬌。
サムシングズ・ガッタ・ギヴ
映画『足ながおじさん』(1955)のためにジョニー・マーサーが作詞作曲して、アカデミー主題歌賞にノミネート。マンハッタンの自宅のテラスでレスリー・キャロンを相手にダンディーに決めたが、アステアは映画での歌い方に不満を持っていたという。
夜も昼も
コール・ポーター作詞作曲。ジンジャーとの初の主演映画『コンチネンタル(The Gay Divorcee)』(1934)で歌ったが、映画のもととなったブロードウェイの『Gay Divorce』(1932)ですでに歌っている。
トップ・ハット、ホワイト・タイ・アンド・テイルズ
アーヴィング・バーリン作詞作曲。『トップ・ハット』の劇中劇のシーンでアステアが歌い踊った。アステアのライヴァルとおぼしき20人の正装した男性群を、アステアは最後にステッキを銃に見立てて全員を撃ち倒すアイディアが秀逸だった。アステアの燕尾服とトップ・ハットとステッキのイメージを作り上げたシーンでもある。ここでは、ハットとステッキが投げ込まれ、ステッキを巧みに操り、軽やかにステップを踏む。

7. イズント・ジス・ア・ラヴリー・デイ
フィナーレ前にもう1曲。「ダンスのあとは息が切れて歌うのは大変だ」と前置きして歌う。アーヴィング・バーリン1935年の作詞作曲。映画『トップ・ハット』で、馬で遠出したジンジャーが雷雨に会い雨宿りしているところにアステアが現れて口説く歌。

『アナザー・イヴニング・ウィズ・フレッド・アステア』

8. ライク・ファストト(オープニング)
デイヴィッド・ローズが作曲・編曲したオープニング曲。今回もアステアのダンスで始まる。

9. アフタービー
ショウのテーマは「ビート」ということで、アステアが歌いだす。アステアらしいリズムを意識した作曲、そして歌いぶり。作詞はジョニー・マーサー、ドラムスはアルヴィン・ストーラー。

10. ザット・フェイス
アステアとチェイスのダンス・ナンバー。1957年にアラン・バーグマン作詞、ルー・スペンス作曲。アステアにゆかりの「ファニー・フェイス」を連想させる。

11. マイ・ブルー・ヘヴン
今回もゲストはジョナ・ジョーンズのグループ。1927年にジョージ・ホワイティングが作詞、ウォルター・ドナルドソンが作曲した。

12. ア・ギャル・イン・キャリコ
1946年にレオ・ロビン作詞、アーサー・シュワルツ作曲。ミュージカル映画『ザ・タイム、ザ・プレイス・アンド・ザ・ガール』(日本劇場未公開)で紹介され、アカデミー主題歌賞にノミネート。

13. ナイト・トレイン
1952年にオスカー・ワシントンとルイス・C・シンプキンスが作詞、ジミー・フォレストが作曲した。アステアはジョナ・ジョーンズ・カルテットの伴奏でブルージーに歌い、コーラスとオーケストラに変わるとダンスになる。昔の彼女が夜行列車で帰ってくるというので駅で待っていると、彼女(チェイス)は子供を6人も連れて現われる。最後の笑い声はそのため。

14. フレッド・アステア・メドレー #2
今回のメドレーは燕尾服の正装で歌う。
魅惑のリズム
アイラ・ガーシュイン作詞、ジョージ・ガーシュイン作曲。ブロードウェイの『レイディ、ビー・グッド!』でウクレレ・アイクことクリフ・エドワーズが歌い、アデールとフレッド・アステアが踊った。
ダンシング・イン・ザ・ダーク
1931年にハワード・ディーツ作詞、アーサー・シュワルツ作曲。ブロードウェイのレヴュー『ザ・バンド・ワゴン』で紹介され、映画『バンド・ワゴン』(1953)ではセントラル・パークのシーンでアステアとシド・チャリースが踊ったが、あらゆるミュージカル映画の中でもっともロマンティックなダンス・シーンだった。
今宵の君は
ドロシー・フィールズ作詞、ジェローム・カーン作曲。『有頂天時代』でアステアが歌って、アカデミー主題歌賞を受賞。
ディアリー・ビラヴィッド
ジョニー・マーサーが作詞、ジェローム・カーンが作曲。リタ・ヘイワース共演の映画『晴れて今宵は』(1942)でアステアが歌い、アカデミー主題歌賞にノミネート。
ステッピン・アウト・ウィズ・マイ・ベイビー
1947年にアーヴィング・バーリンが作詞作曲。ジュディ・ガーランド共演の映画『イースター・パレード』(1948)で、アステアが歌い、スローモーション撮影も交えてダイナミックで正確無比なダンスを披露した。
レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス
これもアーヴィング・バーリンの作品。映画『艦隊を追って』(1936)の劇中劇でアステアが歌い、ジンジャーと踊った。
キャリオカ
ガス・カーン、エドワード・エリスク作詞、ヴィンセント・ユーマンス作曲。映画『空中レヴュー時代』(1933)でアステアとジンジャーが踊り、脚光を浴びるきっかけとなったナンバー。アカデミー主題歌賞にノミネート。
コンチネンタル
ハーブ・マジドソン作詞、コン・コンラッド作曲。『コンチネンタル』のラスト近いハイライト・シーンでジンジャーが歌い、ふたりのダンスと群舞が繰り広げられた。アカデミー主題歌賞を受賞。
ワン・フォー・マイ・ベイビー
ジョニー・マーサー作詞、ハロルド・アーレン作曲。ジョーン・レスリーと共演した映画『青空に踊る』(1943)ではしご酒をするアステアが歌い、アカデミー主題歌賞にノミネート。
バイ・マイセルフ
ハワード・ディーツ作詞、アーサー・シュワルツ作曲。ブロードウェイの『ビトゥウィーン・ザ・デヴィル』(1937)で紹介され、映画『バンド・ワゴン』では、冒頭NYCセントラル・ステーションのシーンでアステアが独りさびしく歌った。
プッティン・オン・ザ・リッツ 
1930年にアーヴィング・バーリンが作詞作曲。同名のミュージカル映画で紹介され、ビング・クロスビー共演の映画『ブルー・スカイ』(1946)でアステアが歌ったが、それに続くダンス・シーンでは8回同じルーティーンを撮影してそれらを同時に特大のミラーに映しその前でダンスするという凝った演出があった。
トップ・ハット、ホワイト・タイ・アンド・テイルズ
今回もメドレーのクロージングはこのナンバー。ハットとステッキで決めて、映画『トップ・ハット』を彷彿とさせるヒップなステップを披露する。

『アステア・タイム』

15. 「ロメオとジュリエット」序曲(オープニング)
ロシアのチャイコフスキー作曲。1870年初演の序曲『ロメオとジュリエット』をデイヴィッド・ローズが編曲したもの。ハーミズ・パン・ダンサーズの踊りで始まり、アステアとチェイスが登場する。

16. ミス・オーティス・リグレッツ
1934年コール・ポーター作詞作曲。バリー・チェイスがロンドンあたりの有閑マダムか貴族の夫人役で、アステアが実直(そうな?)執事に扮し、アステアが前の日に起きたオーティス嬢のスキャンダルをまったく正反対の優雅な曲調で歌い、途中からふたりのダンスとなる。最後の笑いは、マダムのために作ったカクテルをアステアが隠れて飲み干したから。

17. ナット・ナウ、アイル・テル・ユー・ホエン
カウント・ベイシー楽団によるハードな演奏。スタジオ録音は同名のアルバム(1960/ルーレット)に入っている。作曲・編曲はベイシー楽団の重鎮、サド・ジョーンズ。

18. スウィート・ジョージア・ブラウン
ベイシー楽団の演奏が終わり、ピアノに寄りかかりながらアステアがベイシーと、演奏がリードするかダンスがリードするかでコミカルなやり取りがあり、ベイシー楽団をバックにアステアが踊りだす。素敵な娘を見つけてモーションをかけうまく行きそうになるが結局ダメ、というストーリーをひとりで踊る。1925年にベン・バーニー、マセオ・ピンカード、ケネス・ケイシーが共作した。

19. イッツ・ア・ワンダフル・ワールド
ベイシー楽団の伴奏でジョー・ウィリアムズが歌う。1939年にハロルド・アダムソンが作詞、ジャン・サヴィットとジョニー・ワトソンが作曲。

20. ブルース・メドレー
アステアとチェイスのダンス・ナンバー。悪い女(チェイス)に恋をした男(アステア)がチェイスの男に脅かされ最後は男も女も拳銃で倒れる、というストーリー。演奏はベイシー楽団、歌はジョー・ウィリアムズ。
アーリー・ワン・モーニング
エルモア・ジェームスとマーシャル・E・シーホーンによる共作で1967年の出版となっているが、実際は1960年にエルモア・ジェームスが作った。
ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー
1956年にレイ・チャールズが作詞作曲して、同年彼のアトランティック盤、1959年にペギー・リーのキャピトル盤がヒット。
イッツ・ア・ロウ・ダウン・ダーティー・シェイム
1938年にオリー・シェパードが作詞作曲したブルース・ナンバーで、オリー自身が紹介した。
ゴーイン・トゥ・シカゴ・ブルース
ベイシー楽団でジョー・ウィリアムズの先輩だったジミー・ラッシングが1941年にベイシーと作ったナンバーで、ラッシングのオハコ。
エヴリ・デイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルース
1952年にピーター・チャットマンが作詞作曲して、ジョー・ウィリアムズとベイシー楽団の共演レコードでヒットした。ここでは演奏のみ。
シェイク、ラトル、アンド・ロール
1954年にチャールズ・カルフーンが作詞作曲してブルース・シンガーのジョー・ターナーが紹介し、彼のアトランティック盤やロックン・ロール畑のエルヴィス・プレスリーのRCA盤がヒットした。

21. フレッド・アステア・メドレー #3
今回はカジュアルなジャケット・スタイルで登場し、ストゥールで歌う。
ミセス・ローズボローグッドビー
言葉による戯れを楽しむコール・ポーターらしい、1934年の作品。ポーター自身のヴィクター盤で紹介されたが、あまり歌われない曲だ。
ファニー・フェイス
1927年にアイラ・ガーシュイン作詞、ジョージ・ガーシュイン作曲。アデールとフレッド・アステアのブロードウェイにおける地位を揺ぎないものにした『ファニー・フェイス』でふたりが歌い、映画『パリの恋人』(1957)でもアステアが歌った。共演はオードリー・ヘプバーン。
アイ・ラヴ・ルイーザ
1931年ハワード・ディーツ作詞、アーサー・シュワルツ作曲。レヴュー『ザ・バンド・ワゴン』でアステア姉弟が紹介し、映画『バンド・ワゴン』ではアステアとオスカー・レヴァントが歌った。レヴューでの舞台がババリア地方だったので、ドイツ語が混じる。
フライング・ダウン・トゥ・リオ
ガス・カーンとエドワード・エリスク作詞、バートン・レイン作曲。『空中レヴュー時代』で、美女たちが飛行機(当時は双葉機)の翼の上で踊るラストのスペクタクル・シーンで、地上にいるアステアが歌った。
アイム・プッティング・オール・マイ・エッグズ・イン・ワン・バスケット
アーヴィング・バーリン作詞作曲。『艦隊を追って』で、アステアとジンジャーが歌った。
みんな笑った
アイラ・ガーシュイン作詞、ジョージ・ガーシュイン作曲。『踊らん哉』のナイトクラブの場面でジンジャーが歌い、実はバレーが好きでないアステアがロシアのバレー・ダンサーの役(実はアメリカ人)ということでバレーを踊る珍しいシーンへと移る。
ラヴリー・トゥ・ルック・アット
ドロシー・フィールズとジミー・マクヒュー作詞、ジェローム・カーン作曲。『ロバータ』で主演のアイリーン・ダンが歌い、アカデミー主題歌賞にノミネート。
レッツ・コール・ザ・ホール・シング・オフ
アイラ・ガーシュイン作詞、ジョージ・ガーシュイン作曲。『踊らん哉』のセントラル・パークのシーンでアステアとジンジャーが歌い、ローラースケートで踊った。
イースター・パレード
アーヴィング・バーリンが1917年に書いた「スマイル・アンド・ショウ・ユア・ディンプル」のタイトルと歌詞を1933年に書き変え、レヴュー『アズ・サウザンズ・チアー』で紹介され、『イースター・パレード』でアステアとジュディ・ガーランドが歌ってハッピー・エンド。
ア・シャイン・オン・ユア・シューズ
今回も途中でステッキが投げ込まれ、歌からダンスとなる。1932年にハワード・ディーツ作詞、アーサー・シュワルツ作曲。レヴュー『フライング・カラーズ』で紹介され、『バンド・ワゴン』でアステアが歌い踊ったシーンはアステア映画のハイライトのひとつ。

22. 「アニトラ」のシャッフル
ノルウェイの作曲家グリーグが作曲した組曲「ペール・ギュント」に出てくるエキゾティックな「アニトラの踊り」がもと。デイヴィッド・ローズはメリハリを効かせた現代風な味つけをしてみせる。 

 (2012.8.10. 三具 保夫)

放映
@〜F 『アン・イヴニング・ウィズ・フレッド・アステア』  (1958年10月17日・NBCテレビ)
G〜M 『アナザー・イヴニング・ウィズ・フレッド・アステア』  (1959年11月4日・NBCテレビ)
N〜22 『アステア・タイム』  (1960年9月28日・NBCテレビ)

パーソネル
フレッド・アステア(vo on 2, 6, 7, 9, 10, 13, 14, 16, 21)
バリー・チェイル(words on 16)ジョナ・ジョーンズ・カルテット(3 – 5, 11 - 13)
ジョナ・ジョーンズ(tp, vo)、テディ・ブラノン(p)
ジョン・ブラウン(b)、ジョージ・フォスター(ds)
カウント・ベイシー楽団(on 17 - 20)
ジョー・ウィリアムズ(vo on 19, 20)
デイヴィッド・ローズ・オーケストラ(except on 3, 4, 11, 12, 17 - 20)

 

 



 

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