『アフターソーツ』/オードリー・モリス』/
オードリー・モリス Afterthoughts/Audrey Morris 

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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sinatra society of japan
TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『ザ・ロジャース・アンド・ハート・ソング・フォリオ』/コニー・ボスウェル

『ロジャース・アンド・ハート・
ソング・フォリオ』/
コニー・ボスウェル
The Rodgers & Hart Song Folio/
Connee Boswell Joens
\2100 (XQAM-1067) 原盤: Pacific Delights
録音:1959年(?) 日本初登場
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ミルドレッド・ベイリー、リー・ワイリーとともに白人女性ジャズ・ヴォーカルを確立し、エラ・フィッツジェラルドに多大な影響を与えたコニー・ボスウェルの数少ないオリジナル・アルバムの一枚がコレ。
 


1. Ev'rything I've Go/エヴリシング・アイヴ・ガット>>試聴
2. You're Nearer/ユア・ニアラー>>試聴
3. I Could Write a Book/アイ・クッド・ライト・ア・ブック>>試聴
4. My Funny Valentine/マイ・ファニー・ヴァレンタイン>>試聴
5. I Didn't Know What Time It Was/時さえも忘れ>>試聴
6. My Romance/マイ・ロマンス>>試聴
7. The Lady Is a Tramp/ザ・レイディ・イズ・ア・トランプ>>試聴
8. Bewitched/ビウィッチト>>試聴
9. Where or When/いつかどこかで>>試聴
10. There's a Small Hotel/ゼアズ・ア・スモール・ホテル>>試聴

 

                      白人女性ジャズ・ヴォーカルの開祖

 白人女性ジャズ・ヴォーカルはミルドレッド・ベイリー、リー・ワイリー、そしてコニー・ボスウェル(ボズウェルというべき)の三人に始まる。その前にアネット・ハンショウという歌手もいるが、日本での知名度は皆無に近い。
 インディアンの血をひくミルドレッド・ベイリー(1907−1951)は1929年に初の女性専属シンガーとしてポール・ホワイトマン楽団に入って人気歌手となり、退団後に結婚したレッド・ノーヴォ(vib, mba, xyl)と“ミスター&ミセス・スウィング”と呼ばれた。無類の大食漢で極度の肥満体だったが、キュートな歌声とのびやかな高音そして自然なスウィング感から繰り出されるブルース・フィーリングやジャズ・センスは第一級だった。
 名盤『ナイト・イン・マンハッタン』(コロンビア)で知られる、チェロキー・インディアンの血をひくリー・ワイリー(1910−1975)はファッション誌を飾ったほどの超美人。気だるさと儚さを感じさせるモノトーン風の歌声で、恋焦がれる女心を切々と訴えるトーチ・ソングを歌わせたら右に出るものはいなかった。

 コンスタンス・フォー・ボスウェルは1907年12月3日にミズーリ州カンサス・シティで生まれ、ルイジアナ州ニューオリンズで育った。姉妹にマーサ(1905−1958)とヴェット(1911−1988)がおり、三人は幼い頃からクラシックの弦楽トリオ(ピアノ/チェロ/ヴァイオリン)を組んでいたが、伝説のコルネット奏者ビックス・バイダーベックを教えたことで知られるエメット・ハーディと知り合いジャズに転向したといわれる。コニーはサックスとトロンボーンを習得した。
 姉妹は地元のコンテストに優勝して、コニーをリーダーに本格的な活動を開始した。1925年ヴィクターで初録音をおこない、ヴォードヴィルやラジオに出演し、1930年にロスのOKレーベルに吹き込んだことで注目されるようになった。1931年にブラウズウィックとレコーディング契約を結び、ビング・クロスビー主演の映画『ラヂオは笑う』(1932)にも出演するなどして、みなオーソドックスな美人だったこともあり、着実に人気を高めていった。最大のヒットは「ジ・オブジェクト・オブ・マイ・アフェクション」(1935)でビルボード・チャートのトップに立った。なお、シスターズの写真や映像を見るとコニーは常に座っているが、これは幼いときに小児麻痺にかかったからである。
 姉と妹の結婚で1936年にグループは解散したが、コニーはソロ歌手として活動を続け、1940年代にファースト・ネームの綴りを本名の「Connie」から「Connee」に変えている。サインがし易いからだったとか。デッカ・レーベルから多くのレコードを発表し、クロスビーのラジオ・ショウ『クラフト・ミュージック・ホール』にレギュラー出演して人気に拍車をかけた。代表的なヒット・レコードは「ボブ・ホワイト」(1937/ビルボード・チャート首位)、「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」(1938/首位)、「アン・アップル・フォー・ザ・ティーチャー」(1939/2位)、「オン・ジ・アイル・オブ・メイ」(1940/3位)など。最初の3枚はクロスビーとのデュエットである。
 コニーの歌は、前出のベイリーやワイリーに比べると硬質で淑女然とした風情があるが、伸びやかで歌のスケールも大きい。 “ファースト・レイディ・オブ・ソング”ことエラ・フィッツジェラルドは若いころコニーのレコードを熱心に聴いてスタイルをコピーしていた。
1976年10月11日にニューヨークで亡くなった。

コニー・ボスウェルのオリジナル・アルバム

 コニーのオリジナル・アルバムは長いキャリアと人気のわりにきわめて少ない。全盛期がSPレコードの時代重なったことが一番の原因だろう。加えて、1960年に入るとロックンロールの影響で、正統派のシンガーは脇に追いやられていった。
 コニーのオリジナル・アルバムは次の通りだ。
  Connee (1956年・デッカ)
  Connee Boswell and the Original Memphis Five in Hi-Fi (1956・ RCA)
  Connee Boswell Sings The Irving Berlin Songbook (1958・デザイン)
  Connee Boswell Sings The Rodgers & Hart Song Folio (1959・デザイン)
 4枚のうち最後の一枚にあたる本作はデザインというレーベルに吹き込まれたもので、1959年にリリースされた。録音もその年という記述もあるが、確かではない。1958年に同じくデザイン・レーベルから似たようなセッティングの『アーヴィング・バーリン作品集』がリリースされており、本作もひょっとしたら同じころだろうか?
というのは、1957年10月25日にミュージカル映画『夜の豹(Pal Joey)』が公開されているからだ。この映画はフランク・シナトラとリタ・ヘイワース、キム・ノヴァクの主演で、全編にわたってリチャード・ロジャースとロレンツ・ハートの曲が使われており、「アイ・クッド・ライト・ア・ブック」「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」「時さえも忘れ」「ザ・レイディ・イズ・ア・トランプ」「ビウィッチト」「ゼアズ・ア・スモール・ホテル」がシナトラやヘイワース(ジョー・アン・グリアが吹き替え)、ノヴァク(トゥルーディ・アーウィンが吹き替え)によって歌われている。ロジャース&ハートの作品には優れたものがほかにもたくさんあるのに、このアルバム全10曲中6曲が『夜の豹』に使われたナンバーである。映画のヒットに刺激されて制作されたのではないかと推測する次第だ。であれば、1959年より前にレコーディングされていたと考えるほうが妥当だろう。

ロジャース&ハート

 スタンダード・ソングのキーワードは「ロマンス」「大人」「都会(風)」。スタンダード曲のほとんどは恋、それも大人の恋を歌ったものが多い。ロックンロールのようにティーンエイジャーではない。舞台は都会、あるいはミュージカルのストーリーを忘れれば都会をイメージさせる曲が多い。カントリー・ソングとは異なる世界だ。そしてこれら三つの要素がしっかりつまった歌詞を書いたのがロレンツ・ハートだった。リチャード・ロジャースはハートの死の直前にコンビを解消してオスカー・ハマースタイン2世とコラボを組むが、ハートの時代とは曲想がガラリと変わった。ロジャース&ハマースタイン時代の作品といえば『オクラホマ!』『回転木馬』『南太平洋』『王様と私』そして『サウンド・オブ・ミュージック』だが、『南太平洋』の「バリハイ」や『王様と私』の「シャル・ウィー・ダンス?」、『サウンド・オブ・ミュージック』の「ドレミの歌」のように明快で幅広い層に受け入れられやすい作品が多いが、一方のハートの時代はひねりが効きソフィスティケートされた曲が多い。

 リチャード・チャールズ・ロジャース(1902.6.28.−1979.12.3.)は、コロンビア大学時代に先輩のロレンツ・ミルトン・ハート(1895.5.2.−1943.11.22.)と知り合い、在学中にアマチュアや学生のためのショウを共同で書き始めた。ハートは卒業後ジャーナリストとしての仕事のかたわらブロードウェイで働き始め、1919年ふたりの「エニー・オールド・プレイス・ウィズ・ユー」を舞台でかけることに成功し、1925年の『ギャリック・ゲイエティーズ』が評価され地位を固めていった。
 興行的に最高の成績を上げたのは427回上演された『バイ・ジュピター』(1942)だが、ロジャース&ハマースタイン時代の『オクラホマ!』(1943)の2,248回、『南太平洋』(1949)の1,925回、『サウンド・オブ・ミュージック』(1959)の1,433回には到底及ばない。しかし、ロジャース&ハートの歌曲がハマースタイン2世との作品より劣っているということではない。むしろ、洗練されたハート時代の作品のほうが音楽的に上質といえるし好まれている。その証拠にシンガーたちがつくるソングブック・アルバムは『ロジャース&ハマースタイン作品集』より『ロジャース&ハート作品集』をほうが断然多い。
 容姿にコンプレックスを持ち精神的にも繊細だったハートは次第に生活が荒れ、1943年48歳という働き盛りで他界。1960年のハマースタイン2世の死後、ロジャースは作詞も手がけて『ノー・ストリングス』(1962)を発表している。

曲目解説

@エヴリシング・アイヴ・ガット
ロジャース&ハートの最後から二番目となったブロードウェイ・ミュージカル『バイ・ジュピター』(1942)でレイ・ボルジャー(映画『オズの魔法使』のあのかかし役)とビネイ・ヴェヌータが紹介した。オリジナルLPではもっと長いタイトルでしかもスペリングが一箇所不正確。この解説に記したものが正しい。
Aユア・ニアラー
1939年に開幕したブロードウェイ・ミュージカル『トゥー・メニー・ガールズ』の映画版でルシール・ボールが主演した『女学生の恋』(1940)でリチャード・カールソンが歌った。なお、エルヴィス・プレスリーの映画『フロリダ万才』(1965)はこのミュージカルが下敷き。
Bアイ・クッド・ライト・ア・ブック
ブロードウェイ・ミュージカル『パル・ジョーイ』(1940)でジーン・ケリーとリーラ・アーンストが歌い、映画化『夜の豹』(1957)ではフランク・シナトラが歌った。
Cマイ・ファニー・ヴァレンタイン
ブロードウェイ・ミュージカル「ベイブズ・イン・アームズ』(1937)でミッツィ・グリーンが紹介し、映画『夜の豹』ではシナトラの歌が聴けると期待させたがキム・ノヴァクが歌った。
D時さえも忘れ
ブロードウェイ・ミュージカル『トゥー・メニー・ガールズ』でマーシー・ウェストコットとリチャード・コルマーが歌い、映画化ではルシール・ボールほかが歌った。映画『夜の豹』で歌ったのはシナトラ。
Eマイ・ロマンス
ブロードウェイ・ミュージカル『ジャンボ』(1935)でドナルド・ノーヴィスとグロリア・グラフトンが歌い、ドリス・デイが映画化(1962)で歌った。
Fザ・レイディ・イズ・ア・トランプ
ブロードウェイ・ミュージカル『ベイブズ・イン・アームズ』でミッツィ・グリーンが歌い、ロジャースとハートの伝記映画『ワーズ・アンド・ミュージック』(1948・日本未公開)ではリナ・ホーン、『夜の豹』ではシナトラが歌った。
Gビウィッチト
B同様、ブロードウェイ・ミュージカル『パル・ジョーイ』からの曲で、映画化ではシナトラとリタ・ヘイワースが別々のシーンで歌った。
Hいつかどこかで
ブロードウェイ・ミュージカル『ベイブズ・イン・アームズ』でミッツィ・グリーンとレイ・ヘザートンが歌い、映画化『青春一座』(1939)ではジュディ・ガーランドが歌った。映画『ワーズ・アンド・ミュージック』ではリナ・ホーン。
Iゼアズ・ア・スモール・ホテル
ブロードウェイ・ミュージカル『ジャンボ』のために書かれたが使われず、『オン・ユア・トウズ』(1936)でドリス・カーソンとレイ・ボルジャーが紹介した。『ワーズ・アンド・ミュージック』ではベティ・ギャレット、『夜の豹』ではシナトラが歌った。
                                                   (2013.6.29.  三具 保夫)

編曲指揮:ウォーレン・ヴィンセント

 



 

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