『バック・トゥ・ザ・ボールルーム』 /    リッチー・カミューカ&バディ・テイト  Back to the Ballroom/ Richie Kamuca - Buddy Tate

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan
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Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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TOPSinatra Society of Japan presents新録音シリーズ)>『リッスン・ヒア+1』 /スー・レイニー

『リッスン・ヒア+1』 /
スー・レイニー w. アラン・ブロードベント

Listen Here + 1/
Sue Raney with Alan Broadbent
\2,800 (XQAM-1519) 原盤:
SSJ 
録音:2010年8月 カリフォルニア州チャツワース
>>購入する 世界先行発売/ボーナス・トラック1曲

   朋友アラン・ブロードベントとの音楽的交歓から生まれた極上のデュオ・アルバム。超有名曲だけでなく、地味ながら滋味あるれる佳曲もちりばめた選曲の妙も光っている。
 


1. Listen Here/リッスン・ヒア>>試聴
2. My Melancholy Baby/マイ・メランコリー・ベイビー>>試聴
3. A Nightingale Sang in Berkeley Square/バークリー広場のナイチンゲール>>試聴
4. The Bad and the Beautiful/ザ・バッド・アンド・ザ・ビューティフル>>試聴
5. The Music That Makes Me Dance/ザ・ミュージック・ザット・メイクス・ミー・ダンス>>試聴
6. He Was Too Good to Me/ヒー・ワズ・トゥー・グッド・トゥ・ミー>>試聴
7. You'll Never Know/ユール・ネヴァー・ノウ>>試聴
8. Skylark/スカイラーク>>試聴
9. It Might as Well Be Spring/春の如く>>試聴
10. It Never Was You/イット・ネヴァー・ワズ・ユー>>試聴
11. Aren't You Glad You're You/アーント・ユー・グラッド・ユア・ユー(ボーナス・トラック)>>試聴
12.

You Must Believe in Spring/ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング>>試聴

13. Thee Used to Be a Ballpark/懐かしのボールパーク>>試聴
14.

Smoke Gets in Your Eyes/煙が目にしみる>>試聴

 
 


まずアルバム・コンセプトを

スー・レイニーとSSJレーベルの間で初のレコーディング契約が結ばれ、プロデューサーに指名された私はスーとアルバムのコンセプト作りから入った。特定のソングライターの作品集はどうだろうか? スーはそれまでにヘンリー・マンシーニやジョニー・マンデル、アラン&マリリン・バーグマン夫妻の作品集を作っている。しかし、重要なソングライターでありながらトリビュート・アルバムの少ない作詞家・作曲家は見つからなかった。次に、季節に関する歌を集めるとか喜怒哀楽といった感情やムードをベースに選曲することを考えたが、似たようなアルバムはすでに数多く存在していた。こうして考えが煮詰まったときに、ある言葉がふと頭に浮かんだ。「将来やってみたいことは?」という問いに「アラン・ブロードベントとのデュエット・アルバム」という彼女のプレス・キットに書かれた一行である。スーに確かめると、不意を突かれたのか少々動揺した様子だったが、「今でもそう思っているわ。それで行きましょう!」。アルバム作りの道筋はこうして決まった。

スー・レイニーがアラン・ブロードベントに注目したのは、彼がアイリーン・クラールと盛んに仕事をしていた1970年代である。1978年にアイリーンが亡くなってからときが経ち、スーがボブ・フローレンス(p)とのコンビを解消するに及んで、初めてアランに声をかけて。1988年に録音されたヘンリー・マンシーニ作品集『ドリームズヴィル』(ディスカヴァリー)である。アランはふたつ返事で承諾した。というのも、ウディ・ハーマン楽団との契約が終わりロスに落ち着いた1970年代のはじめからスーに注目し、いつか共演したいと願っていたからだ。アルバムでの共演は今回で4度目だが、『ドリームズヴィル』以来スーとアランは幾多のステージ共演を果たしており、ふたりは“ティーム”とよぶに相応しい関係にある。
因みに、アイリーン・クラールの遺作はアラン・ブロードベントとのデュオ・アルバム『ジェントル・レイン』(チョイス・1977年)である。


リハーサル、そしてレコーディング

40名を超えるミュージシャンをバックに2007年に録音された超大作のドリス・デイ作品集『ハーツ・ディザイア』(西フレッシュ・サウンド)から一転して、『リッスン・ヒア』はヴォーカルとピアノのみという最小単位の作品である。アラン・ブロードベントがチャーリー・ヘイドン(b)とのツアーから戻ったところでリハーサルがはじまり、日数をおかず2010年8月26日と27日にレコーディングが敢行された。リハーサルを入念におこなったこともあり、クリエイティヴかつアット・ホームな雰囲気の中、4時間のセッション2回で録音は完了した。
話は選曲に戻るが、スー・レイニーにレコーディングしたい曲を挙げてもらったとき、18枚ある過去のリーダー・アルバムとの重複は避けるよう条件をつけた。それでも、スーの口からは10、20、30と曲名がすらすらと出てきた。
この作品にはほかのシンガーがあまり歌わない曲が入っている。そのひとつがアルバム・タイトルにもなった「リッスン・ヒア」で、スーがこのナンバーを知ったのは歌の作者であるデイヴ・フリシュバーグとコマーシャルの仕事をしていた1970年代のことだという。このナンバーを吹き込んだシンガーはフリシュバーグ自身もふくめ数人しかいない。
もう1曲「懐かしのボールパーク」は本プロジェクトの三具保夫エグゼクティヴ・プロデューサーのリクエストである。そのことを告げるとスーはビックリした表情を浮かべた。スーはかつてシナトラが吹き込んだそれほど有名ではないこのナンバーが大変好きで、いつか録音したいと思っていたが、このときはたまたま思いつかなかったからだ。
(ビル・リード)


スー・レイニーの経歴

1940年6月18日にカンサス州マクファーソンで生まれた。早くからスーの音楽的才能を発見した母親のミルドレッドは幼い子供を教えてくれる歌の教師がみつからなかったため自ら歌のレッスンを受けて、それをスーに教えた。そのときの経験を活かして母親はのちにプロのヴォーカル・コーチとなった。
5歳のときに一家はニューメキシコ州のアルバカーキーに移住し、1952年にこの地のラジオ局KOBEでピアノの弾き語りのレギュラー番組を、2年後にTVのレギュラー番組を持った。このころ本名のレイリーン・クレア・クローセン(Raelene Claire Claussen)がショウ向きでないと、スー・レイ(Ray)に変え、最終的にスー・レイニーとした。
母親は夏休みになるとスーをロサンゼルスへ連れて行きブレークの機会を窺っていたが、1956年シンガーのフランキー・レインの目に留まり一家でロスに移り、彼のオフィスで作ったデモ・レコードがジャック・カーソンに認められて彼のショウにレギュラー出演し、翌57年にはTVのレイ・アンソニー・ショウに出演して彼のバンドでも歌った。この年キャピトルと専属契約を結び、3枚のアルバムと若干のシングルを吹き込んだが、キャピトルのプロデューサー、リー・ジレットはデビュー作の編曲にネルソン・リドルを起用し、ビリー・メイの編曲による2作目『雨の日のジャズ』は魅惑的なジャケット・デザインと相まって、日本でも多くのファンを獲得した。
その後インペリアルへ移籍するがポップ調の音作りに移行していった。また交通事故で活動の停止を余儀なくされる時期も経験した。
1980代に入ると米西海岸のコーラス・グループのLAヴォイセズのリード・ヴォーカルとして健在ぶりをアピールし、その後はディスカヴァリー・レーベルから地味ながら確かな実力を証明する好盤を連発し、そのころから歌の指導にも力を入れるようになった。現在もマイペースで活動しており、その知名度・実力に比してアルバムの数は決して多くない。
スペインのレーベルにアルバムを2枚吹き込んだあと、今回はSSJレーベルへの第一回作品である。スー・レイニーの新録音が日本でリリースされるのは何年ぶりのことであろうか?


演奏と曲目について


@リッスン・ヒア
作詞・作曲・歌・ピアノと多岐にわたって活躍中の才人、デイヴ・フリシュバーグ1979年の作品。フリシュバーグのレコードはアルバム『デイヴ・フリシュバーグ・ソングブック第一集』(オムニサウンド)に収録された。

Aマイ・メランコリー・ベイビー
1911年にジョージ・A・ノートンとメイベル・E・ワトソンが作詞、アーニー・バーネットが作曲した。スーの丁寧で思いを込めた歌にはただ聴き入るのみ。

Bバークリー広場のナイチンゲール
1940年にイギリスのエリック・マシュウィッツが作詞、マニング・シャーウィックが作曲した大変ファンタジックなバラードだが、スーはビートをつけリズムを揺らしメロディーをフェイクさせて音エネルギーの濃い歌を展開する。

Cザ・バッド・アンド・ザ・ビューティフル(ラヴ・イズ・フォー・ザ・ヴェリー・ヤング)
ラナ・ターナーとカーク・ダグラスが主演した映画『悪人と美女』(1952)のためにデイヴィッド・ラクシンが書いたメロディーに、アンドレ・プレヴィンの元夫人で作詞家・歌手のドリー・ラングドンが1960年に歌詞をつけた。歌手にとって難曲として知られるこの曲はアラン・ブロードベントのリクエストだが、スーは2テークで完了。

Dザ・ミュージック・ザット・メイクス・ミー・ダンス
1964年にボブ・メリルが作詞、ジューリィ・スタインが作曲して、「ピープル」で有名なブロードウェイ・ミュージカル『ファニー・ガール』でバーブラ・ストライザンドが歌った。

Eヒー・ワズ・トュー・グッド・トゥ・ミー
1930年にロレンツ・ハートが作詞、リチャード・ロジャースが作曲して、ステージ・ミュージカル『サイモン・サイモン』で紹介されたが、スタンダードの「ダンシング・オン・ザ・シーリング」同様ブロードウェイの本番ではカットされた。

Fユール・ネヴァー・ノウ
>1943年度のアカデミー主題歌賞受賞曲。マック・ゴードンが作詞、ハリー・ウォーレンが作曲して、ミュージカル映画『ハロー、フリスコ、ハロー』(日本劇場未公開)でアリス・フェイが歌い、ディック・ヘイムズのデッカ盤がヒットした。スーは珍しくヴァースから入る。

Gスカイラーク
1942年にジョニー・マーサーが作詞、ホーギー・カーマイケルが作曲して、レイ・エバリーをフィーチャーしたグレン・ミラー楽団のブルーバード盤がヒットしたあと、多くのシンガーが取り上げてきた。スーはサビから入ることでいきなりヤマをつくる。LAヴォイセズでの録音がある。

H春の如く
1945年度のアカデミー主題歌賞受賞曲。オスカー・ハマースタイン2世が作詞、リチャード・ロジャースが作曲して、ミュージカル映画『ステート・フェア』で紹介された。スーは最後で「スプリング・ウィル・ビー・ア・リトル・レイト・ジス・イヤー」「魅せられて(ビウィッチト)」「アイ・ラヴ・パリ」「スプリング・キャン・リアリー・ハング・ユー・アップ・ザ・モースト」から一節ずつ引用する。

Iイット・ネヴァー・ワズ・ユ
1938年にマクスウェル・アンダーソンが作詞、クルト・ワイルが作曲して、ブロードウェイ・ミュージカル『ニッカーボッカー・ホリデイ』で紹介されたが、このミュージカルからは「セプテンバー・ソング」も生まれた。

Jアーント・ユー・グラッド・ユア・ユー(ボーナス・トラック)
1945年にジョニー・バークが作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンが作曲して、ミュージカル映画『聖メリーの鐘』でビング・クロスビーが歌い、アカデミー主題歌賞にノミネートされた。スタジオの時間に余裕があったので、スーがその場で選んだナンバー。

Kユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング
『シェルブールの雨傘』(1963)に続く仏ミュージカル映画の傑作『ロシュフォールの恋人たち』(1966)のために、監督のジャック・ドゥミが作詞、ミシェル・ルグランが作曲したナンバー。1968年にアラン&マリリン・バーグマンが英詞を書き、アメリカでスタンダード化した。

L懐かしのボールパーク
ブリックリンを車で通過したとき、同乗していたバーブラ・ストライザンドの一言「むかしこの辺りは野球場だったの」にインスパイアされたジョー・ラポーゾによる追憶の歌。1973年に出版され、フランク・シナトラのしみじみとしたバラードの名唱がリプリーズにある。

M煙が目にしみる
1933年にオットー・ハーバックが作詞、ジェローム・カーンが作曲して、ブロードウェイ・ミュージカル『ロバータ』でタマラが歌い、1935年の映画化ではアイリーン・ダンが歌いフレッド・アステアが踊った。1958年にプラターズのマーキュリー盤でリヴァイヴァル・ヒットした。

(2011.2.28.  三具 保夫)
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