『ジェーン・ハーヴェイ・シングズ・ソンドハイム』/ジェーン・ハーヴェイ』/
ジェーン・ハーヴェイ Jane Harvey Sings Sondheim/Jane Harvey

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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TOPSinatra Society of Japan presentsジャズ・アルバム (インストゥルメンタル)>『イン・アクション』/J.R. モンテローズ

『イン・アクション』/
J.R. モンテローズ

JR Monterose in Action
\2,625 (XQAM-1616) 原盤:Studio 4 ⇒ JR Monterose Estate

録音:1964年後半/イリノイ州

20年ぶりの復刻。ニュー・リマスタリング
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1960年代を代表するテナーの名盤にしてスーパー・コレクターズ・アイテム。ファン垂涎J.R.モンテローズの代表作を新リマスタリングで20年ぶりに復刻。くわえて、HQCDとDSDマスタリングでガッツのあるサウンドがよみがえった。
 


1. Waltz for Claire/ワルツ・フォー・クレア  >>試聴
2. I Should Care/アイ・シュッド・ケア  >>試聴

3. That You Are/ザット・ユー・アー >>試聴

4. Red Devil/レッド・デヴィル  >>試聴
5. Lover Man/ラヴァー・マン  >>試聴
6. Herky Hawks/ハーキー・ホークス  >>試聴

 

スーパー・コレクターズ・アイテム

本作『J.R.モンテローズ・イン・アクション』はイリノイ州の小都市ロック・アイランド(Rock Island)にあったマイナー・レーベルのスタジオ4によって録音され1964年末に発表されたが、オリジナルLPはジャズの廃盤市場において最も高額なLPのひとつとしてつとに有名だ。 このアルバムを1980年に再発したVSOPレーベルのジェフ・バーによれば、「スタジオ4のオーナー、ジミー・ソトスからマカロニ・ウェスタンをテーマにした廉価版の アルバムの権利とマスター・テープを1,750ドルで買い取ったとき、J.R.モンテローズの未使用のLPを二箱分オマケにつけてくれた。このアルバムは1980年当時でさえ400ドルから900ドルしていたが、その後1,200ドルさらに1,500ドルへとどんどん上がっていった」。 ジムとトニーのソトス兄弟が『イン・アクション』を何枚プレスしたか今となってはわからない。推測するに少なくて250枚、多くても1,000枚には届かなかったはずだ。このアルバムが通常のルート、すなわちレコード店で売られたことがほとんどなかったのはJ.R.が当時活動拠点としていたアイオワ州シダー・ラピッズ(Cedar Rapids)のザ・テンダー・トラップ(The Tender Trap)というナイトクラブで手売りするために作られたためだ。


ロック・アイランドに至るまでのJ.R.

J.R.モンテローズ(本名Frank Anthony Peter Vincent Monterose, Jr.)はテナー一本で全米ばかりかヨーロッパを駆け巡り、演奏しては次の町へと移動するロード人生を送った。『イン・アクション』のライナーでJ.R.は語っている。「楽器を始めたころからジャズをやるならニューヨークと思っていたけれど、そうではないことがわかった。自分のやりたいジャズはむしろ小さい町でこそ実現できるのだと」。1960年代に入って、J.R.はニューヨーク州都のオールバニーやメリーランド州の観光都市オーシャン・シティーに腰を落ち着けて演奏に没頭した。 一方のソトス兄弟は、ザ・テンダー・トラップで販売するためそれまでに3枚のアルバムを制作していた。まだ若かったアル・ジャロウのデビュー・アルバム、ソトス兄弟自身のバンドによるアルバム、そしてJ.R.が2曲参加したシンガーのスー・チャイルズのアルバムである。このヴォーカル・アルバムはJ.R.が参加したことでもう1枚のコレクターズ・アイテムとなっているが、現在日本でSSJからLPとCDでリリースされている。 J.R.がなぜ地方都市のシダー・ラピッズに現れたのか、なぜスー・チャイルズのアルバムに参加したのか、でもなぜ全曲ではなく2曲だけだったのかといった疑問を長年抱いていたが、スー・チャイルズのアルバムがSSJレーベルからリリースされる際に行ったリサーチでいろいろなことがわかってきた。スー・チャイルズのセッションのギタリストだったビル・パスクォーリは「J.R.はロック・バンドのジェイ・アンド・ジ・アメリカンズのサックス奏者として中西部にやってきた。グループはひとつの町で演奏しては次の町へと移動していったが、J.R.だけはシダー・ラピッズに居着いてしまったのさ。バンドの演奏かい?名前をJ.R.・アンド・ジ・アメリカンズとすべきだったね」と笑った。 J.R.の放浪癖は若い頃からのものだった。1927年1月19日にデトロイトで生まれるとすぐに一家とニューヨーク州のユーティカに移った。13歳のときにクラリネットを手にしたが、2年後にコールマン・ホーキンスやチュー・ベリーをラジオで聞いて虜になりテナーに持ち替えることに。J.R.の野太いハードなトーンやごつごつしたフレージング、スタッカートを効果的に用いるスタイルはソニー・ロリンズに通じるものがあるが、意外にも本人はグレン・ミラー楽団のスター・テナー奏者でのちに自己のバンドを率いたテックス・ベネキーから影響を受けたと語っている。 1951年に当時人気のあったヘンリー・ホット・リップス・バシーのメンバーとしてツアーに出るが、バシー楽団の音楽スタイルは保守的で、バド・パウエル派を自認するJ.R.との共通点はほとんどない。次いで、バディ・リッチやクロード・ソーンヒル楽団のあと、テディ・チャールズ、チャールズ・ミンガス、ケニー・ドーハム、ジョージ・ウォリントンといったスモール・コンボにそれぞれ短期間加わり、ミンガスの『直立猿人』(1956年1月・アトランティック)、ドーハム率いるジャズ・プロフェッツの『Vol. 1』(1956年4月・ABC)や『ラウンド・アバウト・ミッドナイト・アット・ザ・カフェ・ボヘミア』(1956年5月・ブルーノート)といった重要なレコードに参加した。ミンガスとの共演は音楽的には得るところ大だったが、リーダーの独裁性と気紛れに相当悩まされたようだ。それに対しドーハムを偉大なリーダー、プレイヤーとして尊敬したが、ジャズ・プロフェッツは短命に終わってしまった。  リーダー作は、ブルーノートへの『J.R.モンテローズ』(1956年10月)、トミー・フラナガンをピアニストに迎えたマイナーのジャロ・レーベルへの『ザ・メッセージ』(1959年11月)、そして本作『イン・アクション』(1964年末)と断続的に発表された。

『J.R.モンテローズ・イン・アクション』について

本作はマイナー・レーベルの中でも一際小さい会社からリリースされたが、演奏と録音のクオリティーは、当時のジャズ・レコードとしては最上の部類に属する。このアルバムが吹き込まれるまでの11カ月近くJ.R.はシダー・ラピッズに滞在していたが、これは40年を超える彼のキャリアの中でも例外的なことだった。 バックのトリオは、全米的には無名でも中西部ではもっとも尊敬を集めていたミュージシャンたちである。トリオのリーダーでドラマーのジョー・アボーディーリーはシダー・ラピッズ生まれ。高校生のときにドラムスを始め、日本に駐留していた時代には陸軍バンドに配属された。1950年代中ごろ除隊して故郷に戻り、1961年にザ・テンダー・トラップを開きレギュラー・グループで精力的に活動した。クラブの名前は彼のお気に入りフランク・シナトラのヒット曲からとったものだという。クラブにはカウント・ベイシー楽団、メイナード・ファーガソン楽団、スタン・ケントン楽団、カイ・ウィンディング、ポール・ウィンターほか有名ジャズメンが次々と訪れ、さながら中西部におけるジャズのメッカであった。ドラマーとしてのアボーディーリーの力量も広く知られており、中西部をツアーするミュージシャンたちはドラマーをローカルで調達したいとき真っ先に彼に電話を入れた。 1941年にイリノイ州のスプリングフィールドで生まれたデイル・オーラーは、録音当時ノースウェスタン大学を卒業して、アイオア大学の修士課程で学んでいたが、同時にザ・テンダー・トラップのハウス・ピアニストでもあった。このアルバムのライナーノーツが彼の将来性を予言している如く、1969年にロサンゼルスに進出したオーラーはスタジオ・ミュージシャン、アレンジャーとしてジャズだけでなくポップス、カントリー、R&Bと幅広い分野で活躍し、グラミー賞にノミネートされることになる。 ベースのゲイリー・アレンは他の二人に比べて特筆すべき点は少ないかも知れないが、ギターも習得した彼の幅広い音楽性がこのアルバムに寄与したことは明白である。

その後のJ.R.

1960年代後半から70年代中ごろまでベルギーやオランダ、デンマークを転々としたJ.R.は、1964年の『イン・アクション』から1969年のオランダでのライヴ盤『アライヴ・イン・アムステルダム・パラディッソ』(ヘヴィー・ソウル)までレコードが一切ない。さらに言えば、1960年代後半から70年代前半のラジオやライヴでのパフォーマンスは未発表のままで、彼の音楽的空白期間になっている。 1977年にヨーロッパから帰ったJ.R.はオールバニー地区にもどり、その後はオールバニーやその周辺にあるいつくかのクラブを拠点にプレイし、この頃に幼なじみのフィリスと結婚している。最近モンテローズのまま娘のひとりと電話で話をしたのだが、彼女によれば、「J.R.は有名になることや放浪生活と決別することにまったく関心がなかったわ。彼はつねによりよいプレイを追い求めていたの」。J.R.は真にテナー・サックスの名手、そしてクリエイターだった。 J.R.モンテローズは1993年9月23日にガンのため、ユーティカの自宅で亡くなった。

                                               (ビル・リード 2011年11月)

パーソネル
J.R.モンテローズ(ts)  ジョー・アボーディーリー(ds)  デイル・オーラー(p) ゲイリー・アレン(b)
録音

1964年末
イリノイ州ロック・アイランド

”JR Monterose in Action" has been released through the cooperation of the JR Monterose Estate.



 

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