『ジェーン・ハーヴェイ・シングズ・ソンドハイム』/ジェーン・ハーヴェイ』/
ジェーン・ハーヴェイ Jane Harvey Sings Sondheim/Jane Harvey

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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sinatra society of japan

『再会』/
アート・ペッパー

Among Friends/Art Pepper
\2,625 (XQAM-1617) 原盤:Interplay

録音:1978年/ハリウッド

ニュー・リマスタリン
米オリジナルLPジャケット仕様

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アート・ペッパー没後30周年企画第一弾。
新リマスタリングでよみがえる復帰後の最高傑作。ペッパー自らメンバーを選び、お気に入りのスタンダードを歌い上げた会心の1作。HQCD"DSDマスタリング。
 


1. Among Friends/再会  >>試聴
2. Round About Midnight/ラウンド・アバアト・ミッドナイト  >>試聴
3. I'm Gettin' Sentimental Over You/アイム・ゲッティン・センティメンタル・オーバー・ユー   >>試聴
4. Blue Bossa/ブルー・ボッサ  >>試聴
5. What Is This Thing Called Love?/恋とは何でしょう?  >>試聴
6. What's New?/ホワッツ・ニュー?   >>試聴
7. Basame Mucho/ベサメ・ムーチョ  >>試聴
8. I'll Remember April/四月の想い出  >>試聴
9. Blue Bossa (alternate take)/ブルー・ボッサ(別テイク)  >>試聴
 
 

 

本アルバムは、アート・ペッパーが長年にわたり専属契約していたコンテンポラリー・レコードを離れて吹き込んだ最初のアルバムで、1978年9月2日にハリウッドのユナイテッド・ウェスタン・スタジオでおこなわれた。もう30年以上も昔のことである。長年いろいろなレコーディング・セッションをおこなってきたが、録音日を明確に覚えているのはこのアルバムだけである。自分のプロデューサー人生の中で一番重要かつ印象に残っているセッションだからだ。

カムバックしたアート・ペッパー

アート・ペッパー(1925−1982)についてはすでに語りつくされていると思う。カリフォルニアで生まれ育ち、スタン・ケントンのビッグバンドで名を上げた。そしてウエストコーストを代表する偉大なアルト・サックス奏者として1950年代早々にはすでにスター的存在であった。ペッパーは何度も麻薬や健康問題で演奏活動を中止せざるをえない状況にあった。それらは50年代から70年代にわたって頻繁に起こったため、実質的な活動期間は短かったといえる。
シナノン療養所を出たあと73年には演奏に復帰していたが、このカムバックは日本のジャズ・ジャーナリズムにも大きく取り上げられた。75年に古巣のコンテンポラリー・レコードからカムバック・アルバム『リヴィング・レジェンド』を出し、全米ツアーもおこなうようになったが、そのスタイルやサックスの音は60年代以前とは異なるもので、当時の評論家やファンの間で賛否両論が巻き起こった。確かにペッパーは一時期ジョン・コルトレーンに傾斜していったこともある。もっとも筆者に彼は「自分のルーツはレスター・ヤングだよ」と言い続けていた。コンテンポラリー・レコードと再び専属契約を結んだペッパーは『リヴィング・レジェンド』のあとも同レーベルで積極的にアルバムを吹き込んでいく。

ペッパーをレコーディングしたい!

長年のペッパー・ファンである筆者はなんとかペッパーをレコーディングできないかと考えていた。しかし当時のコンテンポラリー・レコードのオーナー兼プロデューサーのレスター・ケーニッヒがドル箱アーティストのペッパーを手放すとは思えず半ばあきらめていた。そういう状況の中、ボブ・アンドリュースという人物をある人から紹介された。アンドリュースは元ジャズ・ドラマーでヴァンテージというジャズ・レーベル(現在SSJから復刻されているピンキー・ウィンターズのデビュー・アルバムが名高い)のオーナーでもあり、1950年代にはライトハウスなどのジャズ・クラブで自分のテープレコーダーをまわしてライヴ・セッションを積極的に録っていた人物でもあった。
アンドリュースと出会った当時、彼はテープの一部をザナドゥ・レコードのオーナーであったドン・シュリッテンに売却しており、その中にはアート・ペッパーの若き頃のレコーディングもあった。早速アンドリュースにペッパーが演奏しているものが他にないかと尋ねたところ、ピアニストのソニー・クラークと共演したテープを探し出してくれた。これらを2枚のLPレコードに分けてリリースすることにして、同時にアンドリュースと共同でストレート・アヘッド・ジャズというレーベルを立ち上げ、その第1弾として『アート・ペッパー・ウィズ・ソニー・クラーク・トリオ第1集』(SAJ-1001・廃盤)としてリリースすることにした。アンドリュースとペッパーは出会ったころから、同じミュージシャン同士ということもありお互いウマもあっていたようで、大変親しい仲だった。 

初対面、そしてレコーディングの約束

ソニー・クラークとの共演テープを商品化するには、ペッパーの許可をとりつけギャラを支払う必要があったが、アンドリュースの仲介もありペッパーとの初会合は和やかな雰囲気の中で進み、こちらの意図を理解し快諾してくれた。
そして、1977年の夏。ハリウッド・ブールヴァードに今もある「ムッソー・アンド・フランク・グリル」というレストランにペッパー夫妻を招待した。食事をしながら会話をしているとペッパー夫妻がコンテンポラリー・レコードのケーニッヒ社長への不満を言いだすようになった。もっとも発言のほとんどはローリー夫人で、無口なペッパーは一言「レコーディングに制約がありすぎる」という不満を口に出しただけだったが。つまり当時のケーニッヒ氏はペッパーに「オリジナルをたくさん書いて、レコーディングしろ」という要求を常に出していたという。しかし、ペッパー自身はもっとスタンダード曲をレコーディングしたかったのである。同社との契約は1978年5月に終了するということまで教えてくれた。それで筆者は「では好きなスタンダード曲を選んで、オリジナルはブルースあたりだけにして、自分で選んだミュージシャンたちと好きなようにアルバムを録音できる状況を作るので、契約が終わったら私のインタープレイ・レーベルにレコーディングしてくれませんか?」と持ちかけた。ペッパーもローリー夫人もメジャーのレーベルに移りたかったのであまり気乗りしない様子だったが、同席していたアンドリュースも一緒に口説いてくれたおかげで「1枚分だけなら」とコンテンポラリー後の最初のセッションはインタープレイで、という確約をとりつけることができた。

サイドメンの選定

次にサイドメンに誰を選ぶかということをペッパーと相談した。当時のペッパーのリズム・セクションは流動的であった。ピアニストはおもにミルコ・レヴィエヴで、そのころLAに住んでいたラリー・ウィリスやジョージ・ケイブルズもたまに共演していた。ベースは大体ボブ・マグヌッセンやトニー・デュマで、ドラムスがカール・バーネットという陣容が多かったが、ペッパーも筆者もこのアルバムは別の形で作りたいという気持ちで一致した。すると当時はスタジオ・ワークに忙しかった「ラス・フリーマンとの再会セッションにしたい」とペッパーが言い出した。しかしペッパーがコンタクトすると「もうジャズの演奏はしていないから」とあっさり断られたそうである。しかし断られると燃えるのがペッパーなのか、後で聞いたところによればローリー夫人と一緒になって必死に口説き落としてしまった。その間、筆者のほうはニューヨークからアル・ヘイグを呼ぼうかと考えていた。
夏の暑いある夜に当時マリブ・ビーチにあった「パスクワリズ(Pasquale’s)」というジャズ・クラブにペッパーが出演したときにフリーマンが来て3セットすべてを聴いた後、「是非レコーディングに参加させて欲しい」と言ってきたそうである。その吉報をローリーから電話で受けた筆者の耳には、彼女の興奮した声が未だに残っている。
ベースはほとんどレギュラーとして一緒に演奏してきたマグヌッセン(1947年生まれ)と決めた。マグヌッセンは、すでにサラ・ヴォーンのベーシストとしても活躍しており若い(当時は)ジャズメンの中でも大変有望な存在としてLAのジャズ・シーンで認められていた。ドラムスは長年付き合ってきたシェリー・マンに決まり、フリーマンが唯一空いていた9月2日にスタジオを確保したが、残念なことにシェリーが「前から決まっていたツアーがあって、そのための移動時間を勘違いしていたので、参加できなくなった」と言ってきた。ペッパーが次に指名したのがやはり旧友のフランク・バトラー(1928−84)である。バトラーも麻薬や健康問題で実質活動期間は短かったが、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンなど著名ジャズメンのサイドマンとしてアルバムに参加してきた実績もありウエストコーストの隠れた名ドラマーとして知られていた。

「自分が今まで一番やりたかったアルバム」―― アート・ペッパー

レパートリーはペッパー自身が選んだお気に入りのスタンダード集である。筆者からはオリジナル・ブルースを1曲だけ入れてほしいと要望した。英語のタイトルである『Among Friends』は文字通り旧友たちとの「再会」である。これはローリー夫人がアイディアを出してくれた。「恋とは何でしょう?」「四月の想い出」など良く知られたスタンダードはペッパーの選択である。まだレコーディングしていなかったジャズ・スタンダードの「ブルー・ボッサ」もペッパーが選び、「ベサメ・ムーチョ」はローリー夫人のリクエストであった。そして、コンプリート・テークはほとんど一回で終わったことをよく覚えている。
このアルバムがリリースされた頃は「ペッパーは後ろ向きになっている」とか「売りたいがためにスタンダード集をプロデューサーに強要された」といったネガティヴな意見が数多くジャズ・ジャーナリズムを飾った。だが、「自分が今まで一番やりたかったことができて大変満足している」というペッパーの言葉が、プロデューサーである私にとって最高の栄誉であることは30年以上たった今も変わりない。

蛇足ながら、今回のジャケットを再現するにあたってはアメリカのオリジナルLPをもとにした。日本盤との違いがいくつかある。まず表だが、ペッパーの名前やアルバム・タイトルのフォントが違う。次に裏だが、米盤ではこのアルバムの実現に多大な貢献のあったボブ・アンドリュースがライナーを執筆している。また、日本盤ではボブ・マグヌッセンのスペリングに誤記があり、その誤記はのスペリングに誤記があり、その誤記は後のLPやCDでも踏襲されてきた。

パーソネル
  アート・ペッパー(as)
  ラス・フリーマン(p)
  ボブ・マグヌッセン(b)
  フランク・バトラー(ds)

録音
1978年9月2日
ユナイテッド・ウェスタン・スタジオ(ハリウッド)



 

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