『ジェーン・ハーヴェイ・シングズ・ソンドハイム』/ジェーン・ハーヴェイ』/
ジェーン・ハーヴェイ Jane Harvey Sings Sondheim/Jane Harvey

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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TOPSinatra Society of Japan presentsジャズ・アルバム (インストゥルメンタル)>『ライヴ・イン・ミラノ1981』/アート・ペッパー

『ライヴ・イン・ミラノ1981』/
アート・ペッパー

Live in Milan 1981/Art Pepper
\2,625 (XQAM-1618) 原盤: Interplay

録音:1981年5月/イタリア、ミラノ

新録音
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アート・ペッパー没後30周年企画第二弾。
ペッパーがもった唯一のレギュラー・カルテットによるライヴ・レコーディング。
このメンバーによるスタジオ録音は残しておらず、貴重な記録である。

 


1. The Trip/ザ・トリップ  >>試聴
2. Red Car/レッド・カー  >>試聴

3. Samba Mon-Mon/サンバ・モン・モン  >>試聴

4. My Laurie/マイ・ローリー  >>試聴
5. Blues for Heard/ブルース・フォー・ハード  >>試聴

 

2012年はアート・ペッパーの没後30年にあたる。しばらく廃盤になっていた『再会』の再発に続いて、ミラノでの未発表音源がSSJによる没後30周年企画として登場する。
ペッパーは1981年の4月から5月にかけてレギュラー・カルテットでヨーロッパをツアーしたが、その多くはTVやラジオ局が録画・録音しており地元で放送されたそうだ。そういったエアチェックの音源はブートレグとして各所から出されているが、各局はテープをペッパー本人に渡しており、その数は数十本に及ぶという。ペッパーの死後ローリー夫人が自身のレーベルを立ち上げてリリースしたものもあり、中には他へ売却されたものもある。 

本ライヴ・テープ購入の経緯

ミラノでのライヴのテープを購入した経緯は1978年の『再会』のセッションまで遡る。『再会』のライナー・ノートにも記したが、ペッパーと筆者を仲介してくれたのが元ジャズ・ドラマーでヴァンテージ・レーベルのオーナーのボブ・アンドリュースだった。アンドリュースは長年大変ペッパーと親しくしていた。ペッパーはどんなに親しくなってもその友人とは必ず一定の距離をおくタイプの人物であったが、アンドリュースとはその距離がほとんどない付き合いのようであった。
『再会』のセッションのプロデューサーとしてある程度までペッパーと親しくなっていた筆者ではあったが、やりとりの多くはアンドリュースを介していた。本セッションのテープもアンドリュース経由で買わないかという打診を受けたのだ。81年の暮れあたりだったと思うが、アンドリュースから「ペッパーが早急にまとまったお金が必要になったので、テープを買ってあげてくれないか?」という電話が入った。筆者は確か仕事でシカゴへ出かける時だったと覚えている。金額を聞くと払えない額ではなかったので、すぐにアンドリュースにペッパーとの仲介を頼んだ。当時ペッパーだけでなくお金を必要としていたジャズメンたちにけっこう貸すことが多くあった。その担保に彼らのレコーディング・テープを受け取っていたのを当時のジャズメンたちはよく知っていたようである。もっともペッパーは買い取りのほうがすっきりしていいと思ったようで、他にも同様に数本かのテープを購入している。
さてこのテープ購入の直後にペッパーからお礼の電話があり、「このカルテットのメンバーでのアルバムはまだ発売されていないから、すぐに出してくれ」と言われた。しかし当時のペッパーはサイドメンにハンク・ジョーンズ、トミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズなどの著名ジャズメンを使ったアルバムを出していた。したがってレギュラー・グループとはいえ、彼らに比べると無名のサイドメンたちが参加するアルバムをリリースすることには躊躇した。そのこうするうちに新しいレコーディングなどで忙しくなりテープの存在は忘れてしまった。
で、今振り返るに、今回のメンバーでのスタジオ録音は残されていないのではないかと思うが、録音されたがリリースされていないのかも知れない。いずれにせよ、現時点でこのカルテットによるアルバムはライヴ盤しかないのだ。

アート・ペッパーの経歴

アート・ペッパーの経歴を簡単に紹介しておこう。ペッパーは1925年9月1日にカリフォルニア州ガーディナというLAの郊外に生まれた。白人アルト・サックス奏者ではジャズの歴史上まぎれもなくトップ・クラスに位置するジャズマンである。
9歳でクラリネットを習い始め13歳でアルトに転向。42年に17歳でリー・ヤングのバンドに加入してプロとしてデビューを果たした。翌年にベニー・カーターのバンドに加入、同年スタン・ケントンのビッグバンドに参加したが、翌44年から兵役で2年間ほど陸軍いた。46年にケントン楽団に復帰してからは同バンドのスター・プレイヤーとして人気を得て52年頃に独立。ピアニストのハンプトン・ホーズを含むカルテットで地元のLA地域で活動を始めたが、麻薬問題で50年代の大半を棒に振ってしまった感がある。しかし、その期間中に『モダン・アート』(イントロ)や『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』(コンテンポラリー)などの名アルバムを残している。
60年代に入っても麻薬でやはり別荘暮らしが多く、また健康を害してこの期間の活動もままならぬ状態であった。70年代半ばに入りようやくサックスが吹けるまで健康を取り戻してコンテンポラリー・レコードに吹き込んだカムバック作『リヴィング・レジェンド』で欧米だけでなく日本でも再び人気を博すようになった。
それ以降82年6月15日に亡くなるまでの6年間がペッパーにとって一番充実した日々だったのではないかと思う。この時期筆者は何度もペッパーのライヴを見ているが、どんなに健康状態が悪くても手抜きしない演奏には常に感動を覚えた。

サイドメンについて

次にサイドメンについて触れてみたい。ピアノのミルコ・レヴィエヴ(日米では「ミルチョ・レヴィエフ」といわれる場合が多い)は1937年12月19日ブルガリアの生まれ。ブルガリアの国立音楽院で学んだあと70年に渡米して、75年までドン・エリスのビッグバンドで活躍した。76年にはテナーのジョン・クレマー、77年から80年の間はヴォーカリストのレイニー・カザンの伴奏者として活動した。その後にペッパーのグループに参加したという経歴の持ち主である。ペッパーの死後はスタジオ・ワークが多く、現在も多忙な毎日をおくっている。
ベースのボブ・マグヌッセンは1947年2月24日ニューヨーク生まれ。父がサンディエゴ交響楽団のクラリネット奏者だったので、生まれた時から常に音楽が家中に流れていたという。12歳の頃からフレンチ・ホルンを学ぶが、20歳でベースに転向。ハリウッド周辺でいろいろなジャズメンと共演しながら腕を磨いた。71年から76年までヴォーカリストのサラ・ヴォーンのベーシストとして活動し、その後ペッパーとの共演が多くなり、ほとんどレギュラー・ベーシストとしてペッパーの晩年を共にした。現在はサンディエゴに住み、ジャズだけでなくサンディエゴ交響楽団のコントラベーシストとしてクラシックの世界でも活躍している。
ドラムスのカール・バーネットは1941年2月20日アーカンソー州のキャムデンに生まれ、幼少の頃に家族とともにLAに移住してきた。ドラムスは独学である。地元のジェファーソン・ハイスクールに入ってからドラマーとして頭角を現したが、このハイスクールは当時としてはきわめてハイ・レベルのビッグバンドを持っていた。その指導者(教師)がサミュエル・ブラウンという人物である。この人のもとから巣立ったジャズメンには、デクスター・ゴードン、エリック・ドルフィー、ドン・チェリー、ビリー・ヒギンス、アート・ファーマーなど錚々たるミュージシャンが名前を連ねている。卒業後は地元でフリーランスのドラマーをしていたが、LAに移ったホレス・シルヴァーのクインテットに参加した70年代あたりから知られるようになってきた。ジーン・ハリスのスリー・サウンズに参加していたこともある。その後フレディ・ハバードのレギュラー・ドラマーに迎えられ、ペッパーのカルテットに参加した。バーネットは現在もドラムスを演奏し、後進の指導にも熱心だ。

演奏曲目について

収録されている5曲はイタリアのミラノのクラブでのライヴだが、場所と詳しい日にちは特定できていない。ここに収められたレパートリーは当時の他のアルバムに収録されたものと重複するが、ペッパーの演奏はどれも重要だと思う。
「ザ・トリップ」は麻薬でハイになった状態を表すスラング「トリップする」から来ているとは本人の弁。でもテーマもアドリブ・パートもメランコリックだが破滅的なメロディーがでてくるわけでもなく、大変聴きやすいフレーズで演奏されている。
「レッド・カー」は当時アートが持っていた車の色が赤だったことから名づけられた。この車はコンテンポラリー・レコードのレスター・ケーニッヒ社長からのプレゼントだったようだ。
「サンバ・モン・モン」は文字通りサンバのリズムを使ったペッパーのオリジナル。
「マイ・ローリー」はご存知ローリー夫人へのオマージュ。
「ブルース・フォー・ハード」はベース奏者のジョン・ハードへのデディケーションだという。ペッパーとハードの共演はそれほど多くなかったと思うが、プライベートではけっこう交流があったようだ。
レコーディングはラジオ局のエンジニアによって行われたが、私がペッパーからテープを渡されたときすでに拍手はかなりカットされていた。ライヴなので避けがたいのだが、ペッパーはアルバムに拍手が入るのを好まなかった。

(妙中俊哉 2011.12.10.)

パーソネル
  アート・ペッパー(as)
  ミルチョ・レヴィエフ(p)
  ボブ・マグヌッセン(b)
  カール・バーネット(ds)

録音
  1981年5月 イタリア、ミラノ

カヴァー・フォト
  内山繁(Whisper not)

 



 

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