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『レッツ・ビー・フランク』 / ピーター・マーシャル with カラブリア・フォーティー Let's Be Frank/ Peter Marshall

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan
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Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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『ブルー・ボッサ』 /
ハンク・モブレー

Blue Bossa/
Hank Mobley

\2,400+税 (XQAM-1630) 原盤:
Pacific Delights
録音:1968年 世界初登場
>>購入する  

ハンク・モブレーが生涯に一週間だけ出演したコペンハーゲンの名門「モンマルトル」への出演を捉えた1968年のライヴ録音。モブレーのヨーロッパでの活躍は断片的にしか紹介されてこなかっただけに、きわめて貴重は歴史的証言といえる。バックは気心の知れたケニー・ドリュー率いるハウス・トリオ。おそらく初の商品化となる「ブルー・ボッサ」が聴きものだ。

 


1. Blue Bossa/ブルー・ボッサ>>試聴
2. Alone Together/アローン・トゥゲザー>>試聴
3. Summertime/サマータイム>>試聴
4. Workout/ワークアウト>>試聴
 

 

ハンク・モブレーについて

 ハンク・モブレーは1930年7月7日ジョージア州イーストマンに生まれ、家族と共にニューヨーク地区へ移住した。サックスはほとんど独学だったという。ニューヨークを拠点に活動を始め20歳になる前からR&Bのバンドでテナー・サックスを吹いていた。マックス・ローチにスカウトされ彼のグループで53年まで働き、その後すぐにジャズ・メッセンジャーズに参加したあと、ホレス・シルヴァーがメッセンジャーズから独立するとしばらく彼のバンドで活動した。プレスティッジ・レーベルにリーダー作を発表し、続いてブルーノートでリーダー・アルバムを数多く発表した。サイドマンとしての参加も多く1960年のケニー・ドリューのブルーノート盤『アンダーカレント』にも参加しているので、このアルバムは再会セッションということになる。
 モブレーの名前はなんといってもマイルス・デイヴィス・クインテットにジョン・コルトレーンの後任者として入ったことで知られている。もっとも1961年から62年の2年間という短い期間だった。特にマイルスのブラックホークでのライヴ・アルバム(コロンビア)はウィントン・ケリーの素晴らしい演奏に耳がいってしまうが、それに触発されたモブレーもまた好演していることを記しておきたい。なんとなく中堅テナーという感じでチャーリー・ラウズやクリフォード・ジョーダンあたりと同じ扱いをされることが多いが、実際はソニー・スティットやジミー・ヒース以上の実力を持った人であった。日本ではブルーノート盤の『ディッピン』に入っている「リカード・ボサノヴァ」がヒットしてけっこう非ジャズ・ファンにも知られるようになった。ブルーノートに20枚以上のリーダー・アルバムを吹き込んでいるので順調な活動を継続してきたと思われがちだが、他のジャズメン同様に麻薬問題で何度も服役しており、マイルスから独立した後も64年に服役した。69年に前衛ジャズ・レーベルとして知られるBYGのアクチュエル・シリーズの中にあるアーチー・シェップのアルバムに参加して驚かされたが、演奏スタイルはモブレー本来のものと変わっていない。本アルバムでも共演しているアルバート・ヒースによると、当時のモブレーはなんでもチャレンジしようという意欲があり、モータウンのヒットソングから前衛ジャズまで演奏レパートリーを広げようとしていた。70年に入るとピアニストのシダー・ウォルトンと双頭グループを組みレギュラー活動したが病気になりほとんど引退していた。85年にカムバックを目指したがやはり健康状態が思わしくなく86年5月30日に亡くなった。まだ56歳前だった。

本アルバムについて

 本アルバムのセッションはロス郊外のレドンド・ビーチにあったヴァンテージ・レコードの原盤である。1952年にボブ・アンドリュースとジャック・アンドリュース(姻戚関係なし)がスタートしたヴァンテージ・レーベルは10インチ盤シリーズとしてピアニストのハンプトン・ホーズ・トリオとバド・ラビン・トリオ、ギタリストのジミー・ワイブル、サックスのアンソニー・オルテガ、そしてヴォーカルのピンキー・ウィンターズ(SSJからXQAM-1044で発売中)の5枚を出しただけで活動を休止した。66年にボブ・アンドリュースは以前から数種類のレコード・レーベルを主宰していたフランク・ドノヴァンという友人を出資者に得てレーベルを再開し、まず10インチで出ていたラビンとワイブルをそれぞれ片面に配した12インチLPとして再発した。その後ベン・ウェブスターがケニー・ドリュー・トリオと共演したアルバムやヴァイオリン奏者のスタッフ・スミスがはやりドリュー・トリオと共演したアルバムをリリースした。いずれもドノヴァンの供給であった。
 1980年代に入って、ボブ・アンドリュースが50年代前半にロサンゼルス周辺のジャズ・クラブで自らテープ録音していたウエスト・コーストのジャズメンたちによる一連のジャム・セッションをインタープレイ・レーベルが買収したときに旧ヴァンテージの10インチ盤の音源も買って欲しいといわれて、それらも同時に購入した。その時に12インチLPの音源について尋ねると権利を持っているドノヴァンを紹介された。
 後年ドノヴァンと交渉してヴァンテージ・レーベルの名称とロゴの権利及び12インチの音源もまとめて買収した。もっとも取引が実際に成立したのは1988年になってからだが、その中には前述したウェブスターとスミス以外にもズ―ト・シムズやウォーン・マーシュのテープが当時未発表のまま残っており、ハンク・モブレー(本アルバム)、ソニー・ロリンズ、そしてデクスター・ゴードンなどのテープもあった。しかしすべてライヴ録音で1曲が非常に長くLPレコード時代にはアルバム化に無理があった。というわけで当時は手をつけずそのまま倉庫に眠らせておいた。マーシュとシムズはその後CDとして日本でもリリースされたが、他のアルバムは相変わらず倉庫に眠ったままになっていた。
 これらはすべてケニー・ドリュー・トリオがバッキングしているセッションで、スウェーデンのアルト・サックス奏者アルネ・ドムネラス(1924-2008)が録音・所有していたテープである。ドムネラスはチャーリー・パーカーやクリフォード・ブラウンたちがヨーロッパ・ツアーに来た時に共演していた実力派アルト奏者で、彼の『ジャズ・アット・ポーンショップ』(Proprius)というアルバムは大変人気があり世界で30万枚以上売れた。ドムネラスは新ヴァンテージのドノヴァンと親交が深く、自ら関与したラジオやTV番組制作時に記録したセッションをドノヴァンに売却していた。本アルバム以外にも、リリースされているケニー・ドリュー・トリオのバッキング・シリーズはすべてドムネラスからの音源である。

 世界初登場となる本作は1968年3月10日にコペンハーゲンのジャズ・クラブ、モンマルトルで行われたライヴ録音である。73年に掲載されたダウンビート誌のインタビューによれば、モブレーは67年にスライド・ハンプトンに誘われてヨーロッパで演奏を始めるようになりそれから数年は毎年のようにヨーロッパに訪れていた。ヨーロッパと行き来していたこの頃には麻薬となんとか手を切ったが、今度はアル中に近い状態になってしまった。ジャズ・ピアニストのラモント・ジョンソンは60年代後半に何度かモブレーのセッションに呼ばれたが、いつも酔っ払っていたという。また彼の話では、パリで真夜中にデクスター・ゴードンと飲んだくれふたりして路上でサックスを抱えたまま寝てしまったこともあるそうだ。アルバード・ヒースに先日このモブレー・セッションについて聞いたところ、たまにステージに現れないこともあり遅刻も多かったという。それから、モブレーのモンマルトル出演はこの時の1週間だけだったというから、本アルバムはきわめて貴重なドキュメントといえよう。

サイドメンについて

 ピアニストのケニー・ドリュー(1928-1993)については長々と説明は不要であろう。ニューヨークの生まれで、一時期カリフォルニアに住みクラリネットのバディ・デフランコのバンドに2年ほどいた。その後再びニューヨークに戻りレスター・ヤングやチャーリー・パーカーとも共演した。ジョン・コルトレーンのブルーノート盤『ブルー・トレイン』でピアノを担当したことでも知られる。 1961年にパリに移住し、その後の活動の場所はヨーロッパであった。後年コペンハーゲンに居を構えスカンジナビアを中心としたヨーロッパ全土で活躍し、共演したアメリカのジャズメンは数多く、このセッションのようにレコーディングが残されている場合も多い。
 ベーシストのニールス=ヘニング・オルステッド・ペデルセン(1946-2005)はデンマーク生まれの天才ジャズ・ベーシスト。コペンハーゲンのモンマルトルのジャズ・クラブでデビューしたのは15歳のときである。カウント・ベイシーに同時期スカウトされたが若すぎて米国政府がビザを発行しなかったそうだ。アメリカのジャズメンたちが必ず出演するジャズ・クラブのモンマルトルでハウス・ベーシストとして主にピアノのケニー・ドリュー、ドラムスは流動的だったがアルバート・ヒース、アレックス・リールほかとハウス・トリオを組んで長年演奏した。彼らはソニー・ロリンズ、ズート・シムズ、ハンク・モブレー、ジョニー・グリフィン、ジャッキー・マクリーンなどアメリカから来た大物ジャズメンの伴奏にもあたった。ペデルセンはそういう環境で腕を磨き、晩年はオスカー・ピーターソンのレギュラー・メンバーとしても活動した。
 アルバート・トゥーティ・ヒース(1935年生まれ)は、テナー・サックスのジミー、ベースのパーシーの3兄弟の末っ子である。1975年から78年までこの3兄弟にピアニストのスタンリー・カウエルを加えて定期的に演奏活動していたこともある。初レコーディングに参加したのはジョン・コルトレーンのプレスティッジ・セッションで、多くのレコーディングやライヴ・セッションに引っ張りだこだった。ヨーロッパでも60年代から頻繁に演奏活動していたが、63年から68年はヨーロッパを拠点に活躍した。80年代からはロサンゼルスに住み、以降は教壇に立つことも多く、最近はスタンフォード大学でも教鞭をとっていた。現在は The Whole Drum Truth というベン・ライリー、チャーリー・パーシップ、ビリー・ハート、ルイス・ヘイズなどが加わったジャズ・ドラム・アンサンブルのリーダー格として活躍している。

演奏曲について

 「リカード・ボサノヴァ」に似ているので選んだのか、ケニー・ドーハムの「ブルー・ボッサ」から快調に飛ばしている。「アローン・トゥギャザー」のバラードの解釈にはまだまだ全盛期の面影が残っている。ジョージ・ガーシュインの「サマータイム」もモブレー独特のノリで歌っている。最後はモブレーのオリジナルでブルーノート盤のアルバム・タイトルにもなった「ワークアウト」である。ブルーノート盤よりちょっと荒っぽい演奏になっているがライヴならではのハリのある演奏だ。

 モブレーはこのあと1969年7月12日にパリでブルーノート・レーベルのために『ザ・フリップ』というアルバムを吹き込んでいる。ブルーノート・レーベルへの最後の録音はおなじ月の31日にニュージャージーのルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオでおこなわれ、70年代後半から80年代にかけてリリースされたブルーノート未発表シリーズの一枚として『シンキング・オブ・ホーム』のタイトルでリリースされた。

                            (2014.2.16.  妙中俊哉 ジャズ・プロデューサー)

パーソネル:ハンク・モブレー(ts)
        ケニー・ドリュー(p)
        ニールス=ヘニング・オルステッド・ペデルセン(b)
        アルバート・トゥッティ・ヒース(ds)

録音:    1968年3月10日
        モンマルトル(コペンハーゲン)

 

 

 

 

   

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