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『レッツ・ビー・フランク』 / ピーター・マーシャル with カラブリア・フォーティー Let's Be Frank/ Peter Marshall

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan
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Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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TOPSinatra Society of Japan presentsジャズ・アルバム (インストゥルメンタル)>『スカンジナビアン・ブルー・1966』 /セロニアス・モンク

『スカンジナビアン・ブルー・1966』 /
セロニアス・モンク

Scandinavian Blue 1966/
Thelonious Monk

\2,400+税 (XQAM-1631) 原盤:
Pacific Delights
録音:1966年 世界初CD化
>>購入する  

セロニアス・モンクのレギュラー・カルテットは1966年春にイギリスやヨーロッパ大陸へと大ツアーを敢行し、各地で大歓迎を受けた。英国やフランス、スイスでのコンサートは過去にCD化されているが、北欧ストックホルムやコペンハーゲンでの演奏がCD化されるのは今回が初めて。しかもライヴではなくTV放映のために特別収録された貴重な音源である。

 


1. Lulu's Back in Town/ルルズ・バック・イン・タウン>>試聴
2. Blue Monk/ブルー・モンク>>試聴
3. 'Round About Midnight/ラウンド・アバウト・ミッドナイト>>試聴
4. Lulu's Back in Town/ルルズ・バック・イン・タウン>>試聴
5. Don't Blame Me/ドント・ブレイム・ミー>>試聴
6. Epostrophy/エピストロフィー>>試聴
 

 

モンクの衝撃

 本アルバムはセロニアス・モンクが1966年春にヨーロッパへツアーをした折に記録された2つのセッションから成り立っている。1曲目から3曲目は1966年4月15日にノルウェーのオスロにあるOslo Universityで録音されたもので、4曲目から6曲目は4月18日にデンマークのコペンハーゲンのTVスタジオで収録された。どちらもテナー・サックスがチャーリー・ラウズ、ベースがラリー・ゲイルズ、ドラムスがベン・ライリーという、当時のレギュラー・カルテットの面々である。
 モンクは1917年10月10日にノースカロライナ州ロッキーマウント生まれ。幼少の頃に家族とニューヨークに移住して以来ずっとニューヨークを本拠にしていた。1982年2月17日にニューヨークで亡くなっている。リーダーとしての初レコーディングはブルーノートへの1947年である。その後プレスティッジ、そしてリヴァーサイドと今ではジャズの歴史に欠かせないジャズ・レーベルを渡り歩いた。
 モンクは「バップの高僧」と呼ばれたこともあるがスタイル的にはバップではない。強いていえばテディ・ウィルソンのスタイルに不協和音を組み込んだものか。それが何故バップなのかジャズ評論家のムリな決めつけには困ったものだ。
 筆者は子供の頃からクラシック・ピアノを学んでいたが、アメリカに渡り中学生の頃に初めてモンクのレコードを聞いた。このアルバムと同じメンバーによる『ストレイト、ノー・チェイサー』(コロンビア/1966・1967)である。ラジオから流れてきた「荒城の月」は大ショックで、レコード店にいって早速購入して再び聴いた。アルバム・デザインの斬新さも目を引いたが、クラシック・ピアノをやっているものにとってモンクの初体験は強烈で、すっかり嵌まってしまった。レコードを聴きながら音を採譜していったが不協和音というには失礼なくらい音楽にフィットしており、音楽理論を越えたものを強く感じた。

モンクとの短い会話

 モンクには生前数回会っている。といってもインタビューするためにじっくり座って話したわけではない。当時筆者が住んでいたロサンゼルスにあった「イット・クラブ」(1964年のライヴ盤がコロンビアから出た)や「シェリーズ・マンホール」に出演した際に何度も聴きにいったのだ。休憩時間にトイレにいくとどういうわけかよくモンクに出くわし、こちらから声をかけてちょっと会話を楽しんだ。モンクはおそらくシャイな人間だったのだろう、自分から声をかけてくるような雰囲気の人ではなかった。けっこう大柄で190センチぐらいはあったと思う。一番印象に残っているのは「最近新しい曲を演奏しませんね」に対する答だ。1968〜69年当時のことで、アルバムのレパートリーもモンクのオリジナルもほとんど同じものが再演されていたことから投げかけたのだ。すると「毎晩やっているじゃないか」と返ってきた。なるほど、テーマは同じでも「アドリブの中身はいつも違うよ」といいたかったのであろう。他には「チャーリー・ラウズがソロをとっているとき、伴奏せずにどっかにいってしまいますね。ステージに帰ってきてから自分のソロに戻るタイミングってわかるのですか?」と尋ねると「好きなときに戻ればいいのだよ」という。「他のピアニストがミスター・モンクのオリジナル曲を弾くのをどう思いますか?」と尋ねると「誰も私にプライベート・レッスンを受けたいといって来ないのでね」。他のピアニストによるオリジナル曲の演奏にはあまり気に入ったものがなかったのであろう。後年ジャズに関わる仕事をするとは思っていなかったので、じっくりモンクと話をする機会を見つけていたらと後悔している。
 以前ベース奏者の故サム・ジョーンズとドラマーのロイ・ヘインズとクロード・ウィリアムソンのセッションで一緒になった時にモンクの話がでた。どちらも「モンクの間(ま)を読まなければいけないから大変だ」と語っていた。「モンクの作る音楽は空間が重要なんだ。だからスペースを音で埋め尽くすようなことをやってはいけない」。両人からの2点のコメントが大変印象に残っている。

コロンビア時代のモンク

 モンクは1962年に大手のコロンビア・レコードと専属契約を結んだ。マイナー・レーベルだったリヴァーサイドからメジャーへの昇格によって大々的に宣伝広告をしてもらえ販売網も広がりおそらく収入もよくなったであろう。しかしながらコロンビアに吹き込んだ一連のアルバムはリヴァーサイドに比べるとちょっと魅力に欠けるものが多かった。演奏はいいのだが、企画が大手企業らしく大雑把な感じがした。モンクのアルバムがあまり売れないという状況にコロンビアの上層部は面白くなかったであろう。同じコロンビア専属のジャズ・ピアニストでもデイヴ・ブルーベックのアルバムは相当売り上げていたので、モンクにも同じような期待をしたはずだ。とうとうモンクにビートルズの楽譜集を送りつけてきたという。「あんたのオリジナルでは売れない。ビートルズのヒット曲をレコーディングしてくれ」という意味であろう。モンクのプライドがいたく傷ついたことは想像に難くない。1968年に吹き込んだ『モンクス・ブルース』を最後にフリーランスとなってしまった。最後の正式なリーダー・アルバムは1971年にアート・ブレイキー(ds)とアル・マッキボン(b)とのトリオでブラック・ライオンに吹き込んだアルバムである。

本アルバムについて

 収録されている6曲はTVやラジオ放送のためのセッションで、2006年になってからDVD『セロニアス・モンク・ライヴ・イン・’66』(Jazz Icons)としてリリースされた。
 繰り返しになるが、最初の3曲は1966年4月15日オスロでの演奏。この日の夜のコンサートを映像収録する予定だったが、収録環境と機材の関係で急遽コンサート前の午後にレコーディングされた。メル・トーメの歌で知られる「ルルズ・バック・イン・タウン」は、当時モンクが盛んに演奏していたナンバーのひとつ。「ブルー・モンク」はリヴァーサイド時代に発表されたモンクのオリジナルで、何度もレコーディングされている。1958年に撮影されたドキュメンタリー映画『真夏の夜のジャズ』でもモンクがこの曲を弾くシーンが出てくるので、このレコーディング時にはすでに年季の入ったレパートリーであった。「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」はモンクが作ったあまりにも有名なジャズ・スタンダードでありアメリカン・スタンダードの中でも飛び切りの名曲である。大学の音楽理論のクラスの分析セッションではよくこの曲のメロディーやコード・チェンジなどが教材になっていた。
 続く3曲は同月の18日にコペンハーゲンの国営TV局で映像収録されたセッションで、前日の夜には市内にある有名なチボリ・ガーデンでコンサートが持たれた。ここでも「ルルズ・バック・イン・タウン」から入るが、オスロのヴァージョンより2分以上も長い。モンクのソロで演奏されるスタンダードの「ドント・ブレイム・ミー」はアルバム『クリス・クロス』(1962・1963/コロンビア)での名演と同じようにソロで通す。ブルーノート時代の40年代後半すでにレコーディングされていたのがモンクのオリジナル「エピストロフィー」で、この曲がドラマーのケニー・クラークとの共作であることはあまり知られていない。ドラム・ソロ用にぴったりの曲調をもっている。
以上に書いた経緯から観客が入っていない、よって拍手が入っていない理由がおわかりいただけたと思う。
 ヨーロッパ・ツアーを終えたモンクのカルテットはこの年の5月3日に羽田空港に降り立った。二度目の日本公演のためだが、ヨーローパからの直行と思われる。5月16日の最終公演で突然「荒城の月」を弾きだして観客は呆気にとられたが、モンクがこの曲をレコーディングしたのは帰国からかなり経った1967年1月10日のことである。

サイドメンについて

 アリス・コルトレーン、スタン・ゲッツ、ケニ―・バロンたちと共演しているベン・ライリー(1933年7月17日生まれ)は、モンクのリズム隊として重要な役割を果たし、70年代はニューヨーク・ジャズ・カルテットというグループで活躍していた。コンコード・ジャズに『メモリーズ・オブ・T』(2006)という注目に値するリーダー・アルバムがある。“T”はモンクのことだ。本稿執筆時点で健在のようだ。
 ラリー・ゲイルズ(1936年3月25日〜1995年9月12日)は11歳でプロ・デビューした早熟派のジャズマン。プロ活動と並行してニューヨークのマンハッタン・スクール・オブ・ミュージックで学んだ。ジュニア・マンス、ジョニー・グリフィン、エディ・ロックジョー・デイヴィスなどのレギュラー・メンバーとして活躍した。モンクのバンドには1969年まで在籍したあとロサンゼルスに移住して、ケニー・バレルのグループなどで活躍した。リーダー作『メッセージ・フロム・モンク」(キャンディッド/1990)は題名の通りこれまたモンクに捧げられた力作である。
 チャーリー・ラウズ(1928年4月6日〜1988年11月30日)は、1959年から1970年までモンクの相棒を務めた。派手なテナー奏者ではないがモンクにはなくてはならない存在だった。モンクのメンバーになる以前にはビリー・エクスタイン、ディジー・ガレスピー、デューク・エリントン、カウント・ベイシーなどの名門ビッグバンドで腕を磨いた。後年はモンクのレパートリーのみを演奏する「スフィア」というバンドを率いた。エピック・レーベルなどにリーダー・アルバムがある。
                             (2014.4.17.  ジャズ・プロデューサー 妙中俊哉)

パーソネル:セロニアス・モンク(p)
        チャーリー・ラウズ(ts except on 5)
        ラリー・ゲイルズ(b except on 5)
        ベン・ライリー(ds except on 5)

録音:    1966年4月15日 ノルウェー、オスロ(1 - 3)
        1966年4月18日 デンマーク、コペンハーゲン(4 – 6)

 

 

 

   

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