『アフターソーツ』/オードリー・モリス』/
オードリー・モリス Afterthoughts/Audrey Morris 

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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sinatra society of japan

『二人の青い鳥+7』/
ボビー・ヴィントン
My Elusive Dreams + 7/
Bobby Vinton
\2,500+税 (XQAM-1813/DQCP-3026) 原盤: 米Epic
録音:1968〜1970年 日本初CD化/
ボーナス・トラック7曲
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「ミスター・ロンリー」「ブルー・ヴェルヴェット」の大ヒットを60年代に放ったボビー・ヴィントンの新たな旅立ちとなった1970年の記念碑的アルバム『二人の青い鳥』が日本で初CD化。LPでのリリースから実に44年ぶりの復活だ。加えて、1969年のアルバム『ヴィントン』から7曲のボーナス・トラックを追加。

 


1. My Elusive Dreams/二人の青い鳥
2. Raindrops Keep Fallin' on My Head/雨にぬれても
3. Something/サムシング
4. I'll Never Fall in Love Again/恋よさようなら
5. Leaving on a Jet Plane/悲しみのジェット・プレーン
6. Traces/恋の足跡
7. I Will Follow You/アイ・ウィル・フォロー・ユー
8. Baby, Take Me in Your Arms/夢のくちづけ
9. If Ever I Would Leave You/あなたを捨てるなど
10. Baby I'm Yours/ベイビー・アイム・ユアーズ
11. The Perfect Woman/パーフェクト・ウーマン
12. Stand by Your Man/スタンド・バイ・ユア・マン (ボーナス・トラック)
13. When I Fall in Love/恋におちた時 (ボーナス・トラック)
14. It's a Sin to Tell a Lie/嘘は罪 (ボーナス・トラック)
15. Try a Little Tenderness/トライ・ア・リトル・テンダーネス (ボーナス・トラック)
16. Middle of the Night/ミドル・オブ・ザ・ナイト (ボーナス・トラック)
17. Are You Sincere/本気なのかい (ボーナス・トラック)
18. May You Always/メイ・ユー・オールウェイズ (ボーナス・トラック)

 
 


ボビー・ヴィントンについて

 ボビー・ヴィントンはペリー・コモと同じペンシルベニア州キャノンズバーグの出身。1935年4月16日の生まれで父親はバンド・リーダー。ボビーも幼い頃から楽器演奏に興味を持ち、ハイスクールでは友人たちとバンドを結成して地元で評判になり、大学でボビーが一時的に在籍したグループ、テンポスは1959年に「シー・ユー・イン・セプテンバー」のヒット(最高位全米23位)を出したものの、兵役に就いていたボビーはこの曲の録音には不参加だった。ちなみに、のちに「ミスター・ロンリー」などを共作するジーン・アランはメンバーのひとりである。
 兵役からもどったボビーは再度バンドを結成して、デモ・テープをニューヨークのCBSレコードへ送ると採用され傍系のエピック・レコードから1961年にバンド・リーダーとしてデビュー。ボビー・ヴィントン・アンド・ヒズ・オーケストラとして2枚のアルバムと3枚のシングルをリリースし、キャッシュ・ボックス誌から1961年度最優秀新人楽団賞を受賞した。ところがセールスが伸びずエピックはボビーの解雇の検討を開始したが、ボビーは契約書の中身を熟読し、もう1枚シングル・レコードを発売できる権利を会社側に主張し、歌手として1962年2月16日「涙の紅バラ(ローゼズ・アー・レッド)」、「ミスター・ロンリー」など4曲をボブ・モーガンの制作、ロバート・マーシーの編曲・指揮で録音した。バンド・リーダーとしてグレン・ミラーに憧れながらも、時折披露していた歌が好評だったこととペリー・コモやハンク・ウィリアムスなどの影響を受け歌手としての力量に自信をもっていた上での決断であったことに間違いない。

歌手として再デビュー

 まず「涙の紅バラ」が4月にシングルとしてリリースされたが、会社側はほとんどプロモートしなかった。ボビーはペンシルベニアにもどり地元のレコード店の倉庫に眠っていたシングルを自ら買取ってラジオ局のDJに薔薇の花とともに届け、なんとか歌手としての成功を勝ち得ようとした。その熱意は音楽ファンに伝わりレコードは6月になってチャート・インし1962年7月14日付で全米第1位を記録。エピック・レコードに最初のゴールド・ディスクをもたらし、世界的な大ヒットとなった。前途洋々なボビーだったが、ある日車でドライヴに出たときにラジオをかけると「ミスター・ロンリー」が流れてきた。歌っていたのは同じエピックに在籍していたバディ・グレコ。ボビーはその場で会社にいきさつを問いただすと「君は一発屋、いい作品だから彼に録音させた」という返答にがっかりした。取りあえず会社が用意した作品「涙の太陽」(レイン・レイン・ゴー・アウェイ)を同年7月11日に録音し、チャートでは全米12位を記録した。
 会社側の信頼を勝ち取ることになったのは翌年に出した2曲の大ヒットだった。バート・バカラックの作品「ブルー・オン・ブルー」は当初からボビーに歌わせようと書かれた作品で、バカラック自身がボビーのニューヨークのオフィスを訪ね両者の話し合いの結果、編曲・指揮もバカラックが担当。録音スタジオではバートがピアノも弾き1963年4月3日に録音、月末に発売され最高位全米3位を記録した。同名のアルバムも制作されるが残りの11曲はすべてナッシュヴィルで録音。その中の1曲「ブルー・ヴェルヴェット」のシングル・カットを会社が提案し1963年9月21日から3週間全米第1位をキープする大ヒットとなった。その後も「ブルー・ファイア(ゼア・アイヴ・セッド・イット・アゲイン)」(1964年全米第1位)、「ブルー・ハート(マイ・ハート・ビロングズ・トゥ・オンリー・ユー)」(同年全米9位)、自作の「ミスター・ロンリー」(同年第1位)とヒットを連発し、キャッシュ・ボックス誌はボビーを1964年度の最優秀男性歌手に選出した。ビルボード誌でもボビーは「最もラジオ番組で放送された男性歌手」の部門でフランク・シナトラ、エルヴィス・プレスリーをおさえて第1位にランクされ、ここでエピックと長期契約を結び1965年以降も「ロング・ロンリー・ナイト」(1965年全米17位)、「涙のサテン・ピロウ(サテン・ピロウズ)」(1966年全米23位)、自作の「カミング・ホーム・ソルジャー」(1966年全米11位)などのヒットを連発した。アメリカのソロ・シンガー達が相次いでヒット・パレードから脱落していく時代にあって、英国勢とモータウン・サウンドなどに対抗できたソロ歌手はごく一部で、ボビーの活躍が実力に裏打ちされたものであったことは、これ以降のコンスタントなヒット曲の連発からも明らかである。

ナッシュヴィルでの録音活動

 もともとカントリー・フレイバーをもっていたボビーは1967年から録音の拠点をニューヨークからナッシュヴィルに移した。制作者も従来のボブ・モーガンからビリー・シェリルにバトン・タッチしたが、ビリーは実際には1965年から共同制作者としてボビーの録音に立ち会い1966年にはすでに何曲かの作品を単独で制作していた。
 1966年12月8日に録音した「いつまでも愛して(プリーズ・ラヴ・ミー・フォーエヴァー)」がリリースされたのは翌年の9月で暮には全米6位まで上昇、さらに「虹のパラダイス(ハーフウェイ・トゥ・パラダイス)」(1967年全米23位)、そして「こんなに愛しているのに(アイ・ラヴ・ハウ・ユー・ラヴ・ミー)」はビリーが制作した最大のヒットで1968年の暮、全米第9位を記録、ゴールド・ディスクを獲得した。その後も「砂遊びした頃(ザ・デイズ・オブ・サンド・アンド・シャベルズ)」(1969年全米34位)などコンスタントにヒットを放ちラスヴェガスなどのステージも好評で、エンターテイナーとしての地位も築きながらビリーの制作でリリースされたアルバム6枚はいずれもアルバム・チャートに入り、幅広い層のファンを獲得した。ボビーの甘くロマンティックな歌声に加えてソフトで歌のうまい歌手というイメージを少しずつ浸透させていった制作者ビリー・シェリルの功績はかなりのものだったと断言できる。
 このCDのタイトル曲「二人の青い鳥(マイ・エルーシヴ・ドリームズ)」は1970年に全米46位を記録し、同名のアルバムもアメリカで1970年3月にリリースされ、日本でもその年の6月に当時のCBSソニーから発売されて比較的好調なセールスを記録したのは選曲、ボビーの好調な歌声、編曲のよさがブレンドされた結果であり、けっして偶然の出来事ではなかった。

スランプからの脱出

 好調な活躍を続けてきたボビーも1971年にスランプを体験した。この年は「君をしあわせに(アイル・メイク・ユー・マイ・ベイビー)」(全米101位)がヒットしたくらいで、のちにペリー・コモが大ヒットさせた「アンド・アイ・ラヴ・ユー・ソー」もヒットには至らなかった。その代わりにジョン・ウェイン主演の2本の西部劇『100万ドルの血斗』(1971)と『大列車強盗』(1973)に出演した。ボビーはジョン・ウェインとはその後も公私にわたって交流を持ち、自伝には「彼の素朴さや正直さかつ男気のある性格から自分に欠けているものを掴み、その後のステージでは、いかに観客を楽しませるかではなく、ありのままの自分を見せることが大切だと気づいた」と書いている。
それまでは強烈な個性を持たず、ヒット・パレード・シンガーなのか真のヴォーカリストなのかその中間的な位置にいたボビーだったが、1971年6月18日にジミー・ボウエンの制作、アーニー・フリーマンの編曲によりハリウッドで録音された「愛はいつまでも(エヴリデイ・オブ・マイ・ライフ)」が1972年に全米24位、次の「涙のくちづけ(シールド・ウィズ・ア・キス)」も同年全米19位、カナダで第1位を記録するなど世界的な大ヒットとなり、再び第1線に返り咲き、円熟味を増し、男性的な魅力も加わったボビーには大きな期待がかけられた。

ABCレコードへの移籍

 再び人気を取り戻したボビーだったが、「何か新しいことをやりたい」というボビーと「もうこれまでのような活躍は期待できない」と判断したエピック側の間に摩擦が生じ、続けてリリースしたシングル「そよ風の恋(バット・アイ・ドゥー)」は1973年82位止まりだった。つぎの「心の痛み(ハート)」も106位が最高位という不本意な成績に終わり、1973年の暮には「カントリー・シンガーとしてなら契約する」という会社側と折り合いがつかず13年間在籍したエピック・レコードを離れ、しばらく所属先のないままラスヴェガスのホテルとの契約も途中で解約されてしまった。
 そんな時期にボビーを救ってくれたのが母親のドロシーだった。彼女は「ポーランド系アメリカ人のために曲を書きなさい」と助言。ボビーがラスヴェガスで耳にした東ドイツの作品に自ら英語とポーランド語の詩を書いて、新曲「愛のメロディー」(マイ・メロディー・オブ・ラヴ)として自費で制作した。制作者には旧知のボブ・モーガン、編曲者にはアル・キャップスを起用しエピック・レコードを含む大手レコード会社にデモ・テープを送ったが、なんとか最後のABCレコードと1974年8月に録音契約ができ、第1弾のシングル「愛のメロディー」が9月にチャート入りしビルボード誌では11月に最高位3位を記録して、この曲を含むアルバム『メロディーズ・オブ・ラブ』とともにゴールド・ディスクを獲得した。「愛のメロディー」はサビの部分にポーランド語を用いたことからポーランド系アメリカ人のテーマ・ソングとなり、これ以降ボビーは「ポーリッシュ・プリンス」と呼ばれるようになった。1975年から1978年までテレビで『ボビー・ヴィントン・ショウ』が放映されラスヴェガスでも同時に3つのホテルと契約をかわすなどエンターテイナーとしての地位を確立した。1978年には自伝『ポーリッシュ・プリンス』を出版してベストセラーを記録。ABCレコードには1977年まで在籍、その後エレクトラ・アサイラム、自身のレコード会社タペストリーをへて1988年にはカーブ・レコードと契約し1992年まで在籍した。得意のポルカやコメディアンのジョージ・バーンズとの共演作や、過去のヒットの再録音盤など大半のアルバムは現在も輸入盤CDで入手出来る。

ブルー・ヴェヴェット劇場」のオープン

 1993年9月ボビーはミズーリ州ブランソンに「ブルー・ヴェルヴェット劇場」をオープンした。ブランソンは治安がよく、高齢者の保養地としてまた釣りの名所として知られる田舎町で、1980年代後半からカントリー・シンガーが続々と劇場をオープンし1990年代に入るとジョン・デイヴィッドソン、アンディ・ウィリアムスなどのポピュラー・シンガーも劇場を建設した。アンディ・ウィリアムスの「ムーン・リヴァー劇場」の斜め向かいに建てられた「ブルー・ヴェルヴェット劇場」でボビーは当初より4月から11月までは週6日ステージをつとめ、オフ・シーズンとなる12月から翌年の3月は北米のツアーというローテーションを2002年までこなした。2002年春にはここでのショウがPBSテレビで放映されたが、その年の秋に劇場を売却した。惜しむ声もあったが、さすがに21世紀にはいると観光客が減り始めたこととツアーに戻りたいという意欲が重なってブランソンからの撤退を決断したのだった。

再びツアーへ

 ボビー・ヴィントンは今年(2014年)79歳になったが、ラスヴェガスやアトランティック・シティほか「ブルー・ヴェルヴェット・クルーズ」やブランソンへの凱旋公演など精力的にステージをこなし、ファンからも批評家からも高く評価されている。いわゆるロックンロール・エイジに誕生したティーン・アイドルのなかで現在も活躍しているのはポール・アンカ、ニール・セダカ、そしてボビー・ヴィントンの3人ぐらいしかいない。声量、歌唱力、軽妙なおしゃべり、楽器演奏、物真似など、スタジオ録音ではわからないボビーのエンターテイナーとしての芸の力量が日本ではほとんど知られていないのは残念だが、アメリカでは50曲近くのヒットを持ちビルボード誌は「モースト・サクセスフル・ラヴ・シンガー・オブ・ザ・ロック・エラ」と称え、ハリウッドの「ウォーク・オブ・フェイム」にも名は刻まれるなど名実ともに第一級のスター・シンガーである。

                        このアルバムについて

 このアルバム『二人の青い鳥』(Epic BN-26540)だが、制作者だったビリー・シェリルが1960年代末からチャーリー・リッチ、タミー・ワイネットなどの大物カントリー・スターたちの制作のために多忙となり、ボビーのアルバムの集大成のような感じで制作されたと推察される。従来から1940年代、1950年代の作品をとりあげてきたボビーにあえて当時の「雨にぬれても」や「サムシング」のような新曲を提案し、選曲にも時間をかけてアルバムを完成させ、次の制作者ジミー・ウィズナーへのバトン・タッチを考えながら、やや中途半端な立ち位置からの飛躍を試み、その結果が好盤という評価を得ることになった。
 ボーナス・トラックの追加7曲は、発売当時アルバム・チャートで69位を記録した『二人の青い鳥』の1枚前のオリジナル・アルバム『ヴィントン』(1969・Epic BN-26471)からの選曲だが、内容が地味なためかこれまで本国でもCD化が見送られてきた作品で、「スタンド・バイ・ユア・マン」や自作の「ミドル・オブ・ザ・ナイト」を除けば古いスタンダード・ナンバーばかりである。このアルバムからは「砂遊びした頃」や「会ったとたんに一目ぼれ(トゥ・ノウ・ユー・イズ・トゥ・ラヴ・ユー)」、「君を想いつめて(ノー・アームズ・キャン・エヴァー・ホールド・ユー)といったヒット曲が生まれ日本でもかつてリリースされたことがあるので、ここでは未紹介だった7曲のみをプラスした。ボビーの真の魅力を捉えていただきたいと考えたからである。

 最後にボビー・ヴィントンのオフィシャル・サイトをご紹介しておく。http://www.bobbyvinton.com/で、貴重な写真やヒット曲の歌詞、ツアーの日程などの情報がアップされている。

                            曲目解説

@二人の青い鳥
カーリー・プットマンとこのアルバムの制作者ビリー・シェリルの共作。1967年にエピックのデイヴィッド・ヒューストンとタミー・ワイネットの共演盤が全米89位を記録、ボビー盤は1970年に46位。1975年にはチャーリー・リッチ盤が49位。またボビー盤はカントリー・チャートでも27位まで上昇した。日本ではナンシー・シナトラとリー・ヘイゼルウッド盤がヒットした。
A雨にぬれても
映画『明日に向かって撃て』の主題歌で、B.J.トーマス盤が1969-70年にかけて大ヒットし、1969年度のアカデミー主題歌賞を受賞した。ボビーが1978年に出版した自叙伝『Polish Prince』には、ボビーにもこの作品を歌うようオファーがあったが、金銭面で折り合わず後悔したと書かれている。ハル・デイヴィッドとバート・バカラックの作品。
Bサムシング
ビートルズのジョージ・ハリスンの作品。1969年全米3位を記録。ボビーが公式にとりあげた最初のビートルズ・ナンバーで、そつなく表現している。
C恋よさようなら
ブロードウェイ・ミュージカル『プロミセス・プロミセス』(1968)の主題歌。アメリカではディオンヌ・ワーウィッ
ク盤が1970年全米6位を記録。イギリスではボビー・ジェントリー盤が1969年に全英第1位。ヴィントン盤もさわやかな表現で原曲の魅力をうまく引きだしている。これもデイヴィッドとバカラックの作品。
D悲しみのジェット・プレーン
ピーター・ポール・アンド・マリー1967年のアルバム『Album1700』から1969年10月にシングル・カットされ翌年にかけて大ヒット、全米第1位を記録した。ボビーの誠実な表現が聞くものの心にひびく。ジョン・デンヴァーの作品。
E
恋の足跡(トレイセス)
ソフトロック・グループ、クラシックス・フォー1969年のヒットで全米2位を記録した。ボビーの情緒表現が素晴らしくオリジナルを上回っているといっても過言ではない。 バディ・ブーイー、ジェームス・コブ・ジュニア、エモリー・ゴーディ・ジュニアの作品。
F
アイ・ウィル・フォロー・ユー
ペチューラ・クラークがフランス語で歌った「恋のシャリオ」と同じ曲。アメリカではジョージア・ギブス、ローズマリー・クルーニーらが英語版を競ったが、1963年に13歳1ヶ月のリトル・ペギー・マーチ盤が全米第1位を記録。ボビーの表現にはそれまでみられなかったストレートでコントロールのきいたうまさが感じられる。仏詞はジャック・プランテ、英詞はアーサー・アルトマンとノーマン・ギンベル、作曲はJ. W. ストール(フランス・プールセル)とデル・ローマ(ポール・モーリア)。
G
夢のくちづけ
イギリスの男性歌手ジェファーソンのレコードが1969年から70年にかけてヒット。全米23位を記録した。若いころのボビーはこういったテンポの作品の処理にやや難があったが、ここではセンチメンタルな表現でうまく歌っている。トニー・マコーレイ、ジョン・マクロードの共作。
H
あなたを捨てるなど(イフ・エヴァー・アイ・ウッド・リーヴ・ユー)
ブロードウェイ・ミュージカル作品で映画にもなった『キャメロット』のナンバーで、ロバート・グーレの代表作。静かな出だしから徐々に盛り上げていくボビーの表現は地味ながら説得力がある。アラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ロウの名コンビの作品
I
ベイビー・アイム・ユアーズ
1965年に黒人女性歌手バーバラ・ルイスが歌って全米11位を記録した。この選曲は意外だったが、ボビーの表現のうまさがよくでている。ヴァン・マッコイの作品。
J
ザ・パーフェクト・ウーマン
バディ・ケイとフィル・スプリンガーの作品。なかなか難解な曲だが、ボビーはさり気なく歌っている。

      ここからは1969年6月に発売されたアルバム『ヴィントン』(未CD化)に収録された作品。

Kスタンド・バイ・ユア・マン(ボーナス・トラック)
タミ—・ワイネット盤が1969年全米19位を記録。1970年にはキャンディ・ステイトン盤が全米24位に。映画『ファイヴ・イージー・ピーセス』(1970)にも使用された。 ビリー・シェリルとタミ―・ワイネットの共作。
L恋に落ちた時(ボーナス・トラック)

1952年にドリス・デイ盤がヒットしたのをはじめ、1962年にレターメン、その後ナタリー・コール盤もヒットした。エドワード・ヘイマン(作詞)ヴィクター・ヤング(作曲)の1952年の作品。
M
嘘は罪(ボーナス・トラック)
ビリー・メイヒュー1936年の作品で、当時ファッツ・ウォーラー盤がヒット。1964年にはトニーベネット盤が全米99位を記録した。ボビーはホンキー・トンク調のピアノに乗って楽しそうに歌っている。
N
トライ・ア・リトル・テンダーネス(ボーナス・トラック)
1932年作の古い歌だが、1967年にオティス・レディング盤が全米25位を記録した。ボビーの歌にはヴィンテージ・ワインのような味がある。ハリー・ウッズ、ジミー・キャンベル、レグ・コネリーの3名の合作。
O
ミドル・オブ・ザ・ナイト(ボーナス・トラック)
ボビーと友人のジーン・アランが共作したミドル・アップテンポの作品。ピアノ、ギターがフィーチャーされ、特にスパニッシュ・ギターが活躍する。ボビーのシグネチャー・ソング「ミスター・ロンリー」もふたりの作品。
P
本気なのかい(ボーナス・トラック)
1958年にアンディ・ウィリアムス盤が全米3位のヒット、1965年にはトリニ・ロペス盤が全米85位を記録した。ボビーは1990年にもカーブ・レコードで再度録音している。独特のムードで歌うボビーのレコードがヒットしなかったのは不思議だ。ウェイン・ウォーカーの作品。
Q
メイ・ユー・オールウェイズ(ボーナス・トラック)
ボビーがラスヴェガスで知り合ったマクガイア・シスターズ1959年のヒットで、全米11位を記録している。ラリー・マークス、ディック・チャールズの共作。途中「蛍の光」のメロディーが出てくるなど、ボビーの暖かい人柄が感じられるこの作品をもってアルバムは終了する。

(2014年5月1日 塚田 譲治)

編曲: ビル・ウォーカー:  1, 10, 11, 18
     ハンク・レヴィーン:2 – 6, 8, 9
     不明:              7, 12 - 17
録音: 1969年9月26日  11
     1969年11月12日 7
     1969年12月17日 1, 10
     1970年1月26日   2, 4, 5, 6
     1970年1月27日   3, 8, 9
     1968年5月9日    13
     1968年5月10日   14
     不明         12, 15 - 18

 



 

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