『ロンリー・アンド・ブルー』/ビヴァリー・ケニー Lonely And Blue / Beverly Kenney

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『ロンリー・アンド・ブルー』/ビヴァリー・ケニー

『ロンリー・アンド・ブルー』/
ビヴァリー・ケニー
Lonely And Blue /
Beverly Kenney
2,200円+税
 (XQAM-1908)
原盤:Cellar Door
1952年ごろ/ニューヨーク   ニュー・マスタリング/HQCD
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ビヴァリー・ケニー未発表音源の第二弾。 1952年ごろの放送用音源で、初々しい芳紀20歳の 歌声が聴かれるチャーミングこの上ない超レア音源。 ニュー・リマスタリング、HQCDによる再発。
 

 
1. Lonely and Blue/ロンリー・アンド・ブルー  >>試聴
2. Tall, Dark and Handsome/トール、ダーク・アンド・ハンサム  >>試聴
3. Yours Sincerely/ユアーズ・シンシアリー  >>試聴
4. Too Late to Be Sorry/トゥー・レイト・トゥ・ビー・ソーリー  >>試聴
5. It's a Mean Old World/イッツ・ア・ミーン・オールド・ワールド  >>試聴
6. Too Bad/トゥー・バッド  >>試聴
7. Let's Try It Again/レッツ・トライ・イット・アゲイン  >>試聴
8. The Stars, the Night, the Moon/ザ・スターズ、ザ・ナイト、ザ・ムーン  >>試聴
9. That Pyramid Jazz/ザット・ピラミッド・ジャズ  >>試聴
10. Long, Lean and Lanky/ロング、リーン・アンド・ランキー  >>試聴

 
   1980年代のことだが、ビート・ジェネレーションのエッセイスト、セイモア・クリムの著作集の中にビヴァリー・ケニーに関する文章を発見した時はビックリした。ビヴァリーの名前が活字になったことは、1960年に彼女が自殺して以来かつてなかったからである。KenneyがKennyになっていたが、それはまあどうでもいいことだ。
 ビヴァリー・ケニーの名前をあちこちで見かけることの出来た時代もあった。少なくともジャズ界においては大いに注目されていたからだ。ライヴ・ハウスからは常に出演を望まれ、「歌だけでなくルックス目当ての聴衆たち」(『ヴァラエティ』誌・1956年)、「選曲をふくめ趣味がよく才能に溢れ、歌に必要なすべてを自然に備えたシンガー」(バリー・ウラノフ『ダウンビート』誌・1956年)、「素晴らしい能力と可能性。長く音楽シーンで活躍するだろう」(『ダウンビート』誌・1955年)、といった具合だ。

 セイモア・クリムからしばらくして、ビヴァリー・ケニーについての記事を掲載した男性ファッション雑誌『GQ』の1992年11月号が書店やスタンドに溢れた。この記事を書いたニューヨークのDJであり著名なソングライター、アーサー・シュワルツの息子である目立ちたがり屋のジョナサン・シュワルツにとって、ビヴァリーのレコードはフランク・シナトラ、初期のマイルス・デイヴィス、ヴァーヴ時代のビリー・ホリデイ、オリジナル・キャストによるミュージカル『回転木馬』のアルバム、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲やすべてのチェロ作品とともに、長い間特別な存在だった。シュワルツのようにビヴァリーの大ファンはアメリカではまったくの少数派であるというより、とっくに忘れられた存在だ。しかし、日本のジャズ・ヴォーカル・ファンの間で、ビヴァリーは今も高い人気を誇っている。ルーストに3枚、デッカに3枚あるアルバムの殆どは現在も入手可能だし、2007年には元々デモ・レコードだった『二人でお茶を』(XQAM-1003)がSSJレーベルからリリースされた。
 ジョナサン・シュワルツはビヴァリー・ケニーの記事を書くにあたって、いろいろと調べたようだ。例えば、1950年代のグリニッジ・ヴィレッジにおいてビート・ジェネレーションの間で眩いばかりの存在として崇められていたエッセイストで評論家のミルトン・クロンスキーがビヴァリーの恋人であったと暴露した。クロンスキーは高い知性と同じぐらい強い自尊心を持ったカリスマ的な教祖で、ビヴァリーに詩を書くように勧めたのも彼だった。

 このジョナサン・シュワルツの記事に刺激を受けた私も自らビヴァリー・ケニー調査を開始した。1950年代半ば、彼女がシンガーとしての階段を急速に駆け上がっていった時期の友人知人たちにコンタクトをとったが、みな私の質問に丁寧に答えてくれた。殆どの人の共通認識としてあったのが、アップビートなヴォーカル・スタイルとは裏腹に人間としてのビヴァリーは精神的に病んでいたということである。ラリー・ソニー楽団でビヴァリーと一緒だったラルフ・パットは「ビヴァリーは本当に素晴らしいシンガーだったけれど、決して幸せそうには見えなかったし情緒的にも不安定なところがあった。彼女が死んだと聞いた時、特に驚きはなかった」。ジャズ・シンガー/ピアニストのオードリー・モリスは「ほかの土地へ行って歌う時は、地元のシンガーたちを聴いたり一緒に遊んだりするのが歌手の間では一種の習慣になっていたけど、ビヴァリーは誘っても一度も来なかったわ」。もうひとりの歌手ベヴ・ケリーが覚えていることも、オードリー・モリスやラルフ・パットの証言と符合する。「寂しげで、不幸せな様子で、憂鬱そうだった」。そのベヴ・ケリーは、名前が似ているために自分が自殺したと間違われたが、40年以上経った今もその誤解は解けていない。

 だがこういった否定的な見方とは異なる見解もあることを紹介しておこう。ひとつはビヴァリー・ケニーの親友だった女優のミリー・パーキンス(1959年の映画『アンネの日記』に主演)のコメントだ。「ビヴァリーはもの思いに耽るとか気紛れなところはありましたが、とても素適な人でした」。パーキンスはビヴァリーが自殺することを予感できなかったことを今も悔やんでいる。ビヴァリーが最後の1年半ほどを一緒に過ごした恋人にとっても、彼女の自殺は大きなショックだったが、パーキンスほどは驚かなかったと言う。彼は長文のメモワールを送ってきた。それによれば、恋人の関係になってから数ヵ月ほど経った或る晩、ふたりは「ディナーのあと最前列に座ってオフ・ブロードウェイのミュージカル(『ザ・ボーイフレンド』)を観たが、彼女は途中で帰りたいと言いだした。アパートまで歩いて戻ったが、その間彼女の心はここにあらずといった様子で、プレイを観ている気分ではなかったと言った。午後10時頃アパートに着いた。ビヴァリーはバスルームに入り、私は服を脱ぐためにベッドルームへ行った。15分ほど経った時、私はバスルームのほうが静かなのに気がついた。トイレの音もシャワーの音も洗面台の音もまったくしない。バスルームのドアの所まで行ったが何も聞こえないし、呼んでも返事がない。寝入ってしまったかと思い、今度は大きな声で呼んだが、彼女は反応しなかった。心配になってドアを蹴破り中に入ってみると、ビヴァリーは意識を失って床に横たわりそばに睡眠薬の空瓶がころがっていた」。この時まで、この恋人はビヴァリーが悩みを抱えていることにまったく気づかなかったという。数日後回復したあとのビヴァリーは以前のように明るく振舞っていたが、数ヵ月後に2度目の試みがあり、結局3度目で成功した。恋人がビヴァリーの死を知ったのは、自殺を報じるラジオを聞いた友人からだった。彼は回想録を次のように結んでいる。「ビヴァリーは例えようもない、本当に魅力的な女性だった。長い月日が過ぎ去った今、CDプレーヤーから流れてくる彼女のあまく無垢な歌声を聴きながらカヴァーの写真を眺める時はいつも、ふたりの間に起こった楽しい出来事だけを思い浮かべようと努めている」。

 SSJレーベルから昨年出たアルバム『二人でお茶を』(XQAM-1003)が未発表作品だったのとは違い、このアルバム『ロンリー・アンド・ブルー』に収められた10曲は以前にリリースされたものだが、一般の市販レコードとは異なる目的を持っていた。すなわち、ここに収められた10曲はラジオで放送されそれを聴いたミュージシャンやシンガーたちがとり上げてくれることを期待して制作されたトランスクリプションである。確実な時期は特定できなかったが、1952年頃と推定される。ビヴァリー・ケニーは1932年生まれだから、20歳前後の真に初々しい歌声が聴けるわけで、その点でもきわめて貴重な音源である。
 このトランスクリプションを制作した会社はずっと以前に活動を停止しており、作詞作曲者の氏名がわかったのはわずか2曲で、他の8曲については手を尽くしたが特定することはできなかった。これら10曲を作った作者たちのほとんどは無名だったはずで、彼らは作品がレコーディングされたことへの対価をもらい、このアルバムに収められた10曲は8枚ほどのLPに分散収録されてラジオ局へ送られて、オンエアの機会をうかがった。
 作者が判明した2曲は、フランク・パーネロ=ベン・フィールズ=ルイス・ズーバーによる「ザット・ピラミッド・ジャズ」と、R&Bの世界では名の知られたルディ・トゥームズによる「ロング、リーン・アンド・クランキー」だが、この2曲はビヴァリー・ケニーの録音が初めてではない。

 ビヴァリー・ケニーのバックをつとめるミュージシャンは1950年代前半の名手たちばかりである。アレンジとベースがエディ・サフランスキー、トランペットがデイル・マクミクル、テナー・サックスがアル・クリンク、ピアノがディック・ハイマン、ギターがマンデル・ロウ、ドラムスがドン・ラモンド等である。彼らがいかに素晴らしいミュージシャンたちであるかは、一度ならずフランク・シナトラのコンサートやレコーディングに起用されていることからもおわかりいただけよう。
 中でもリーダーのエディ・サフランスキーは当時のニューヨークの音楽シーンにあって、セッション・プレーヤーとしてだけでなくプロデューサーとしても活躍した重鎮で、このアルバムの10曲以外にも多くのトランスクリプションを手掛けている。ベーシストとしてのサフランスキーはスタン・ケントン楽団に入団して注目を集めたが、旅から旅への生活から足を洗うべく1940年代後半にNBCのスタッフ・ミュージシャンとなった。1960年代後半から1974年に55歳で亡くなるまでは、ベース楽器の製造会社のためのワークショップを経営し、ロサンゼルス地区のスイングおよびバップ・コンボのプレーヤーとして活躍した。

(2007.7.19. ビル・リード)





 

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