『いつも2人で』/ヴィック・ダモン The Damone Type Of Thing/Vic Damone

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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在庫僅少
『いつも2人で』/
ヴィック・ダモン
The Damone Type Of Thing/
Vic Damone
特別価格
 (YKCJ-301)
RCA原盤
1967年録音 世界初CD化
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  フランク・シナトラが「やつほどのノドを持ったシンガーはいない」と明言したアメリカ最高のバラード・シンガー=ヴィック・ダモン円熟期の大傑作が日本初登場!これほどまでにすばらしい作品が日本でほとんど話題にならなかったとは、ミステリーだ!
 

1. Time After Time/タイム・アフター・タイム  >>試聴
2. I Got It Bad And That Ain't Good/アイ・ガット・イット・バッド  >>試聴
3. Guess I'll Hang My Tears Out To Dry/涙にぬれて  >>試聴
4. Gone With The Wind/風と共に去りぬ  >>試聴
5. I Never Go There Any More/アイ・ネヴァー・ゴー・ゼア・エニイ・モア  >>試聴
6. Two For The Road/いつも2人で  >>試聴
7. Make Me Rainbows/メイク・ミー・レインボウズ  >>試聴
8. It Never Entered My Mind/イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド  >>試聴
9. The More I See You/ザ・モア・アイ・シー・ユー    >>試聴
10. I'll Find You A Rainbow/アイル・ファインド・ユー・ア・レインボウ  >>試聴
11. Arrivederci, My Love /アリヴェデルチ・マイ・ラヴ  >>試聴
 

最高のバラード・シンガー=ヴィック・ダモン

  ヴィック・ダモンはシルクのようにしなやかで透明感のある声を持ったアメリカ・ポピュラー界最高のバラード・シンガーである。バラードの唱法には、オペラ歌手のように大きな声でドラマティックに歌い上げるスタイルと、マイクを最大限に活かして自然に近い発声とフレージングで柔らかく歌う方法、つまり「ささやくように歌う」という意味のクルーニング唱法があるが、クルーニングのスタイルを完成させたのはビング・クロスビーである。そしてダモンは、クルーニング唱法に強いエモーションを込めることでドラマ性を演出した若き日のフランク・シナトラのスタイルを基本に、シナトラをして「彼ほどのノドを持ったシンガーはいない」といわしめた美声を上手くマイクに乗せてバラード・シンガーの第一人者となった。シナトラは1953年にキャピトル・レコードと契約してから、よりリアルで深みのあるブルー・バラードのスタイルを完成させるなど大変貌を遂げるが、ダモンは1940年代のシナトラが得意としたドリーミーなラヴ・バラードをモダンにすることで自己のスタイルを完成させた。

50年を超えるキャリア

 ペリー・コモ(1912〜2001)、フランク・シナトラ(1915〜1998)、ディーン・マーティン(1917〜1995)、トニー・ベネット(1926〜  )、ボビー・ダーリン(1936〜1973)ら、アメリカの一流シンガーにはイタリア系が多いが、ヴィック・ダモンもまた然りである。
  ヴィック・ダモン、本名ヴィート・ロッコ・ファリノーラは1928年6月12日にニューヨークのブルックリンで生まれた。シナトラに憧れて歌手を志しヴォイス・レッスンに励んだが、父親が仕事中に事故に遭い高校中退を余儀なくされた。ニューヨーク・マンハッタンのパラマウント劇場でエレベーター係りとして働いていた時、たまたま乗り込んできたペリー・コモにその場で歌を聞いてもらい大いに勇気づけられた。その後も精進に努め、47年アーサー・ゴッドフリーのタレント・スカウト・ショウで優勝し、47〜48年のシーズンにはCBSラジオで自分のショウを持った。
  1947年マーキュリー・レコードと契約しイタリアの歌を英語で歌った「アイ・ハヴ・バット・ワン・ハート」が初ヒットとなり、49年には「アゲイン」と「ユア・ブレーキング・マイ・ハート」がミリオンセラーとなって人気シンガーの地位を確実なものにした。美声と端正なルックスをハリウッドが放っておくはずもなく、『リッチ・ヤング・アンド・プレティー』(1951・本邦劇場未公開)を手始めに、『わが心に君深く』(1954)、『艦隊は踊る』(1955)、『キスメット』(1955・本邦劇場未公開)といったミュージカル映画に出演した。
  1953年5月に2年間の陸軍兵役を終えてショウ・ビジネスの世界に帰還。54年11月にはジェームス・ディーンに競い勝ってイタリア出身の女優ピア・アンジェリと結婚して息子をもうけ、恩人のひとりに敬意を表してペリーと名付けた。
  1956年にコロンビアに移籍して『ザット・タワリング・フィーリング』(CS-900)や『ジス・ゲーム・オブ・ラヴ』(CS-8169)等6枚のアルバムを発表した。この時代のヒット曲の代表は、56年にブロードウェイのマーク・ヘリンジャー劇場で開幕したミュージカル『マイ・フェア・レイディ』からの「君住む街角」や、ケイリー・グラントとデボラ・カーが共演した映画『めぐり逢い』(1957)のテーマ「アン・アフェア・トゥ・リメンバー(過ぎし日の恋)」である。
  1962年にはシナトラが去った後の後釜としてキャピトルに迎えられるが、レコード会社はシナトラを意識してか女性にモテモテのナイスガイ的なイメージで売り出しを図った。その戦略が成功したか否かは別として、『リンガー・アホワイル・ウィズ・ヴィック・ダモン』(ST-1646)や『ザ・ライヴリー・ワンズ』(ST-1748)ほか、キャピトルでも素晴らしいアルバムを発表した。そしてワーナーを経て、1966年からRCAで以下の4枚のアルバムをリリースした。

『ステイ・ウィズ・ミー』(LSP-3671)
『オン・ザ・サウス・サイド・オブ・シカゴ』(LSP-3765)
『ザ・ダモン・タイプ・オブ・シング』(LSP-3916)
『ホワイ・キャント・アイ・ウォーク・アウェイ』(LSP-3984)

 1枚目では「イパネマの娘」や「コルコヴァード」をはじめとするボサノヴァ曲に加えて「いそしぎ」「ザ・シャイニング・シー」「ア・タイム・フォー・ラヴ」といったアメリカの歌(いずれもジョニー・マンデルの作曲)をボサノヴァのリズムで歌っている。2枚目は当時の新作やヒット曲が中心で、全体的にコンテンポラリーな音づくりがなされている。3枚目にあたるスタンダード中心の本作は日本初登場で、世界的に見ても初のCD化である。そして4枚目もスタンダード集だが、日本では未発売のまま。ダモンのRCA時代は歌手が円熟期に入る40歳前後の時期にあたる。日本でもLP時代から何度かリリースされてきた『ステイ・ウィズ・ミー』をふくむスタンダード中心の3枚は、彼の全キャリアを見渡しても大変水準の高い作品である。
  1960年代後半以降のダモンは、他の多くのスタンダード・シンガー同様ロックの波に押され、70年代はレコーディングよりラスヴェガスでのショウに力を注いだ。そして80年代に入ってイギリスでの再評価を機に再びレコーディングにも意欲を燃やすようになる。その後もマイペースで活躍を続けてきたが、現在は引退してフロリダで悠々自適の生活を送っている。

ヴィック・ダモンに正当な評価を

 アルバム・タイトルにある「シング」とは1960年代中ごろに流行った表現で「自分の得意技」といった意味である。ダモンの得意技は歌うことであり、バラードでは誰にも負けない。だが本アルバムは『ヴィック・ダモン、バラードを歌う』ではない。(2) (3) (5) (6) (8)あたりはバラードだが、(1) (4) (9)といったバラードの名曲はソフトなリズムが施され快いスイング感が広がる。「バラードは素晴らしいが速い曲はうまくない」といわれてきたダモンだが、コロンビア時代のスイング・アルバム『オン・ザ・スインギン・サイド』(CS-8373)あたりはともかく、キャピトル時代あたりからスイング・ナンバーにおいても進境著しく、RCAの本作において自分のスイング唱法を完成させたといっていい。
  今回のリリースによって本作の素晴らしさが認められるとともに、アメリカが生んだ最高のバラード歌手ヴィック・ダモンが日本において正当に評価されることを願って止まない。

【 曲目 】

(1)タイム・アフター・タイム
1947年にサミー・カーンが作詞、ジューリィ・スタインが作曲して、ミュージカル・コメディー『下町天国』の中で若き日のフランク・シナトが歌ったラヴ・バラード。ダモンはソフトにスイングしながら小粋に迫る。編曲はJ・ホール。

(2) アイ・ガット・イット・バッド
1941年にオール・ブラック・キャストのレヴュー『ジャンプ・フォー・ジョイ』のためにポール・フランシス・ウェブスターが作詞、デューク・エリントンが作曲し、アイヴィ・アンダーソンによって紹介された。32小節の小唄の定形にはまらない長い曲だが、歌唱力のあるダモンだけに巧みだ。編曲はJ・ホール。

(3)涙にぬれて
1944年にサミー・カーンが作詞、ジューリィ・スタインが作曲して、ミュージカル『グラッド・トゥ・シー・ユー』で紹介され、翌45年にダイナ・ショアのレコードがヒットした。テンションの持続を要求される難曲で、恋の苦悩をストレートに歌ったシナトラの圧倒的な名唱があるが、ダモンはロマンティックなムードさえ漂うまったく違うアプローチで迫る。編曲はペリー・ボトキン・ジュニア。

(4) 風と共に去りぬ

マーガレット・ミッチェルが書いた大河小説『風と共に去りぬ』にインスパイアされて、1937年にハーブ・マギドソンが作詞、アリ・ルーベルが作曲した悲恋のバラード。小説の映画化の主題歌ではない。暗く重い雰囲気をもったブルー・バラードだが、ダモンはミディアム・テンポで軽くスマートにスイングする。編曲はペリー・ボトキン・ジュニア。

(5)アイ・ネヴァー・ゴー・ゼア・エニイ・モア

ロッド・マッケンが作詞、メル・トーメのアレンジャーとして名高いマーティ・ペイチが作曲した。しっとりとした情感溢れる佳曲だと思うが、ダモンのほかにはジャック・ジョーンズのキャップ盤がある程度。編曲はペリー・ボトキン・ジュニア。

(6)いつも2人で
オードリー・ヘプバーンとアルバート・フィニーが共演した、過去と現在が交錯して進行するロード・ムーヴィー『いつも2人で』(1967)のテーマ曲。イギリス出身のレスリー・ブリッカスが作詞、ヘンリー・マンシーニが作曲した。大変美しい曲だが、同じマンシーニの作品でも「ムーン・リヴァー」や「酒とバラの日々」のように頻繁に取り上げられないのは残念だ。編曲はペリー・ボトキン・ジュニア。

(7)メイク・ミー・レインボーズ

アラン&マリリン・バーグマン夫妻が作詞、今や映画音楽界の巨匠になったジョン・ウィリアムズが作曲したナンバーで、1967年に公開されたディック・ヴァン・ダイク主演のコメディー映画『ニューヨーク泥棒結社』に使われた。編曲はペリー・ボトキン・ジュニア。

(8)イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド
1940年にロレンツ・ハートが作詞、リチャード・ロジャースが作曲して、ブロードウェイ・ミュージカル『ハイアー・アンド・ハイアー』でシャーリー・ロスが歌った。ほろ苦い失恋の思いを綴った名曲だが、透明感のあるダモンの歌は出色の出来。編曲はJ・ホール。

(9)ザ・モア・アイ・シー・ユー
1945年にマック・ゴードンが作詞、ハリー・ウォーレンが作曲して、映画『ビリー・ローズ・ダイアモンド・ホースシュー』(本邦劇場未公開)の中でディック・ヘイムズが歌った。ナット・キング・コールやペギー・リーをはじめ多くのスタンダード・シンガーが歌ってきたが、1966年にロックのリズムで歌うクリス・モンテスのA&M盤がリヴァイヴァル・ヒットした。ダモンはそれで取り上げたのだろうか。編曲はJ・ホール。

(10)アイル・ファインド・ユー・ア・レインボー
ジーン・コスタとアンソニー・P・コスタというなじみのないコンビが作者としてクレジットされている。曲自体はさほど魅力的とはいえないが、ダモンは美声を活かして上手に仕上げている。ほかのアーティストによるレコーディングはないようだ。編曲はディック・グローヴ。

(11)アリヴェデルチ・マイ・ラヴ
ダモンはしばしばイタリアの歌を取り上げてきた。さらにタイトルやメロディーからイタリア産の歌と思ってしまうが、ドイツ人のハンス・ブラドキ(独詞)とヘンリー・マイヤー(作曲)による作品。英詞はシドニー・リー。H・ブラドキとH・マイヤーはシナトラのリプリーズ盤で有名な「サマー・ウィンド」を作ったコンビ。編曲はペリー・ボトキン・ジュニア。
 

(2005年3月1日 三具保夫)
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