『ラヴ・スイングズ』/ボビー・ダーリン Love Swings/ Bobby Darin

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

topchronologydiscographyfilmographybest 10interviewsSSJ presentsfan clubshopblogmail

SSJ presents shop

misic bird

amazon

天然石 パワーストーン

 

sinatra society of japan

『ラヴ・スイングズ』/
ボビー・ダーリン
Love Swings/ 
Bobby Darin
特別価格
 (YKCJ-302)
アトコ原盤
1961年録音 日本初CD化
>>購入する  

  ボビー・ダーリンが「フランク・シナトラに追いつけ、追い越せ」を目標に、上昇気流に乗っていた時代に吹き込んだコンセプト・アルバム。誰もが知っているスタンダード・ナンバーを縦横無尽に歌った意欲作。強烈なスイング感はシナトラを凌いでいるが、長らく過小評価されてきた幻の名盤。42年ぶりに日本再登場!
 

1. Long Ago And Far Away/ロング・アゴー・アンド・ファー・アウェイ>>試聴
2. I Didn't Know What Time It Was/時さえも忘れ >>試聴
3. How About You/ハウ・アバウト・ユー>>試聴
4. The More I See You/ザ・モア・アイ・シー・ユー>>試聴
5. It Had To Be You/イット・ハッド・トゥ・ビー・ユー >>試聴
6. (There Is) No Greater Love/ノー・グレーター・ラヴ>>試聴
7. In Love In Vain/イン・ラヴ・イン・ヴェイン>>試聴
8. Just Friends/ジャスト・フレンズ>>試聴
9. Something To Remember You By/サムシング・トゥ・リメンバー・ユー・バイ>>試聴
10. Skylark/スカイラーク>>試聴
11. Spring Is Here/スプリング・イズ・ヒア>>試聴
12. I Guess I'll Have To Change My Plan/プランを変えて>>試聴
 

音楽映画が3本、立て続けに公開された2005年前半

  2005年前半は音楽伝記映画が3本も立て続けに公開されたことで話題になった。まず2004年12月に公開されたコール・ポーターの『五線譜のラブレター』(De-Lovely)、続いてレイ・チャールズの『レイ』(Ray)、そしてボビー・ダーリンの『ビヨンド The シー 〜 夢見るように歌えば』(Beyond The Sea)である。   『五線譜のラブレター』はコール・ポーター役(ケヴィン・クライン)が本人に似ていないのと、音楽が満載だったことは嬉しいのだがストーリーとのバランスに欠けていたため、十分な感情移入ができなかった。『レイ』は3本の中で最も成功した映画だろう。アカデミー主演男優賞を獲ったジェイミー・フォックスの圧倒的な演技とソックリさんぶり、多少脚色をまじえオーソドックスだが巧みなストーリー展開やヒット曲の連続に大満足だった。   そして「フランク・シナトラに追いつき、追い越せ」を目標に37年の人生を駆け抜けたボビー・ダーリンの映画は、ひとひねり加えた脚色が面白かったしダーリンに扮したケヴィン・スペイシーの達者な歌と踊りに陶然とした。子供の頃からダーリンをアイドルにしていたケヴィンは、この映画の構想に10年以上を費やし、その上製作・監督・脚本・主演をすべてひとりでこなし、ダーリンの成功と挫折、歓びと苦悩をスクリーンの上に蘇らせた。自作のロックン・ロール曲による成功やスタンダード・シンガーへの転身、青春映画のスター、サンドラ・ディーとの結婚といったエピソードは日本でもよく知られているが、ダーリンという芸名の由来や出生の秘密、1960年代後半からの活動の様子や心の変化など、かなりのファンでなければ知りえないような事実も解き明かされており、そういった意味でも興味の尽きない映画だった。

ボビー・ダーリンのキャリア

 ボビー・ダーリンこと、本名ウォルデン・ロバート・コソートは1936年5月14日にニューヨークのブルックリンで生まれた。両親はイタリア系の移民だが、姉が実の母親であることが映画の中で打ち明けられる。8歳の頃患ったリュウマチ性の熱病のために心臓障害を起こし25歳までしか生きられないと宣告されるが ―― 映画では15歳になっている ―― 持ち前のファイト精神で運命に立ち向かっていく。彼を支えたのが音楽であり、フランク・シナトラであった。プロのシンガーとして世にでることを決意したダーリンはシナトラが出演していたニューヨークの超一流クラブ“コパカバーナ”のステージに立つことを夢見て成長していく。ある時ニューヨークの街角で見かけた中華料理店 “Mandarin” のネオンから “Darin” という芸名を思いつく。
  1956年デッカ・レコードとの契約に成功したがうまくいかず、57年にアトランティックの傍系アトコに移籍し、20分で書き上げたという自作の「スプリッシュ・スプラッシュ」が58年にヒットして世に出た。この曲はヒット・チャートの3位にランクインし、続いて「クイーン・オブ・ザ・ホップ」が9位、「ドリーム・ラヴァー」が2位となり、3曲すべてミリオンセラーを記録して、25歳までに有名になるという誓いは早々に達成された。『九月になれば』(1961)や『電話でご用心』(1962)、『ステート・フェア』(同)といった映画にも出演し、『九月になれば』で共演した清純派のサンドラ・ディー(代表作は『避暑地の出来事』『恋愛留学生』)と結婚した。
  1959年時が来たと判断したダーリンは予定の行動に出た。スタンダード・シンガーへの転身である。会社やマネージャーらの反対を押し切って録音したアルバム『ザッツ・オール』(アトコ 33-104)とシングル・カット「マック・ザ・ナイフ」は大ヒットとなり、グラミーのレコード・オブ・ザ・イヤー(「マック・ザ・ナイフ」)と最優秀新人賞を受賞、大人のファン、音楽関係者から第二のフランク・シナトラと俄然注目を浴びるようになった。レコード・オブ・ザ・イヤーはシナトラの「望みを高く」を破っての受賞である。シャルル・トレネが書いたシャンソン「ラ・メール(海)」の英語版「ビヨンド・ザ・シー」も翌60年に『ザッツ・オール』からシングル・カットされてミリオンセラーとなった。
  1961年シナトラがキャピトルを去った。尤も契約分の録音をすべて完了するのは62年になってからであったが...。シナトラの穴を埋めるべく、キャピトルはバラードを得意とするヴィック・ダモンとスインギーなナンバーが得意なボビー・ダーリンというふたりのシナトラ派のヴォーカリストを迎え入れた。ダーリンは62年10月にリリースされたスタンダード・アルバム第1弾『オー・ルック・アット・ミー・ナウ』(ST-1792)でファンとレコード会社の期待に応え、64年にもやはり高水準のスタンダード・アルバム『ハロー・ドーリー・トゥ・グッドバイ・チャーリー』(ST-2194)を発表したが、その一方でワークソングやスピリチュアル、ラテン、民謡までカヴァーした『アーシー!』(ST-1826)、カントリー・ソングに挑戦した『ユア・ザ・リーズン・アイム・リヴィング』(ST-1866)、フォークの世界に浸った『ゴールデン・フォーク・ヒッツ』(ST-2007)といったアルバムを発表するなど音楽への関心は幅広かった。
  1966年古巣アトコの親会社アトランティックに迎えられ、映画音楽集『いそしぎ』(SD-8121)やミュージカル集『イン・ア・ブロードウェイ・バック』(SD-8126)で好調さを持続したが、63年の映画『ニューマンという男』(主演グレゴリー・ペック)でアカデミー助演男優賞にノミネートされながら落選したことでプライドを傷つけられ、敬愛していたロバート・ケネディ上院議員が68年に暗殺されるなど、世の中や自分にたいする絶望や焦燥感からキャリアは停滞してしまう。
  1967年に最愛の妻と離婚したあと、70年代に入って往年のエネルギッシュなボビー・ダーリンが戻ってくるが、心臓の病は確実に体を蝕み、ステージのあとには酸素ボンベが欠かせなかった。そして73年暮れ緊急入院、12月20日心臓手術の最中に息を引きとった。波乱万丈の37年間だった。なお、死の9か月前にNBCテレビで収録・オンエアされたワンマンショウが『ボビー・ダーリン:マック・イズ・バック』(Questar QD-3180)としてアメリカでDVD化されているが、死の影などまったく感じさせない闊達なステージとエンターテイナーぶりに魅せられる。機会があれば是非ご覧いただきたい。



【 曲目 】

(1) ロング・アゴー・アンド・ファー・アウェイ
1944年にアイラ・ガーシュインが作詞、ジェローム・カーンが作曲して、ミュージカル映画『カヴァー・ガール』でリタ・ヘイワースによって歌われ(実際にはナン・ウィンによる吹き替え)、同年度のアカデミー主題歌賞にノミネートされた。ディック・ヘイムズとヘレン・フォレストがデュエットしたデッカ盤がヒット。

(2) 時さえも忘れて
 1939年にロレンツ・ハートが作詞、リチャード・ロジャースが作曲して、ブロードウェイ・ミュージカル『トゥー・メニー・ガールズ』で紹介された。ミュージカル映画『夜の豹』(1957年)では、プレイボーイのシンガー、ジョーイ・エヴァンスに扮した主演のフランク・シナトラが颯爽と歌っていた。

(3)ハウ・アバウト・ユー
 1941年にラルフ・フリードが作詞、バートン・レインが作曲して、ミュージカル映画『ブロードウェイ』(原題は『ベイブズ・オン・ブロードウェイ』)でジュディ・ガーランドとミッキー・ルーニーが歌い、アカデミー主題歌賞にノミネートされた軽快なラヴ・ソング。「ぼくは6月のニューヨークが好きだけど、君は?」「ぼくはガーシュインが好きだけど、君は?」と歌われるが、思い思いに言葉を変えて歌うシンガーが多い。ダーリンは「ジミー・デュランテ(大きな鼻が特徴の人気コメディアン)」を「ケネディ(弟のボビーか?)」、第2コーラスで「ガーシュイン」を「(レナード・)バーンスタイン」、「ジミー・デュランテ」を今度は「ダーリン夫人(つまりサンドラ・ディー)」と変えて歌っている。

(4)
ザ・モア・アイ・シー・ユー
 1945年にマック・ゴードンが作詞、ハリー・ウォーレンが作曲して、映画『ビリー・ローズ・ダイアモンド・ホースシュー』(本邦劇場未公開)でディック・ヘイムズが歌った。1966年にはクリス・モンテスのA&M盤がリヴァイヴァル・ヒットしている。今回同時発売の『いつも2人で』のヴィック・ダモンはソフト・スイングしている。ハード・スイングのダーリンと聴き比べるのも一興か。

(5)
イット・ハッド・トゥ・ビー・ユー
 1924年にガス・カーンが作詞、バンド・リーダーのアイシャム・ジョーンズが作曲してアイシャム・ジョーンズ楽団が紹介して以来、多くのシンガーによって歌われ、1950年代にかけていろいろな映画に使われてきたが、1989年のロマンティック・コメディー映画『恋人たちの予感』のクライマックス・シーンにシナトラが歌うこの曲(リプリーズ盤)が使われ、再び注目を集めるようになった。

(6) ノー・グレーター・ラヴ
 1936年にマーティ・シムスが作詞、アイシャム・ジョーンズが作曲した、高揚感溢れるスケールの大きな愛の歌。ナット・キング・コールのキャピトル盤が模範的な名唱だが、ダーリンも正面から取り組んだ堂々とした歌唱だ。LPではA面の最終曲にあたるが、この曲で初めてバラードとなる。そしてF以降のB面は6曲中4曲がバラードである。

(7)
イン・ラヴ・イン・ヴェイン
 1946年にレオ・ロビンが作詞、ジェローム・カーンが作曲したナンバーで、映画『センテニアル・サマー』(本邦公開未公開)で使われた。クラシックの影響を受けているジェローム・カーンは「歌こそは君」「オール・ザ・シングズ・ユー・アー」のように朗々と歌う名曲が多いが、彼にしては珍しく慎ましやかな佳曲だ。

(8) ジャスト・フレンズ
 1931年にサム・M・ルイスが作詞、ジョン・クレナーが作曲したスタンダード。シナトラはアルバム『ノー・ワン・ケアーズ』(キャピトル)においてバラードとしてしっとりと歌っていたが、ダーリンのようにスイング・ナンバーとして扱うケースもよくある。

(9)
サムシング・トゥ・リメンバー・ユー・バイ
ハワード・ディーツが作詞、アーサー・シュワルツが作曲して、ロンドンで開幕したミュージカル『リトル・トミー・タッカー』で紹介されたが、「アイ・ハヴ・ノー・ワーズ・トゥ・セイ・ハウ・マッチ・アイ・ラヴ・ユ」という長いタイトルだった。現在のタイトルと歌詞になったのは、レヴュー『ゼアズ・ア・クラウド』に使われた時。ダーリンのバラードはこのぐらいのミディアム・テンポがいい。

(10)スカイラーク
 1942年にジョニー・マーサーが作詞、ホーギー・カーマイケルが作曲したポエティックなラヴ・バラード。ダイナ・ショアのブルーバード盤、レイ・エバールをフィーチャーしたグレン・ミラー楽団のブルーバード盤が同年にヒットした。このロマンティックで一途なバラードをダーリンは心を込めて歌っているが、少々力みすぎ。

(11)スプリング・イズ・ヒア
 1938年にロレンツ・ハートが作詞、リチャード・ロジャースが作曲して、ブロードウェイ・ミュージカル『アイ・マリード・アン・エンジェル』でデニス・キングとヴィヴィエンヌ・シ−ガルが紹介した。春になっても晴れない心のうちを歌ったメランコリックなバラードで、フレーズの最後を切らずに次のフレーズにつなげるところはシナトラの影響。

(12)プランを変えて
 1924年にロレンツ・ハートが書いた「アイ・ラヴ・トゥ・ライ・アウェイク・イン・ベッド」という歌詞に対してアーサー・シュワルツがメロディーを書いたのがオリジナル。1929年になってハワード・ディーツが新しい歌詞を書いて、レヴュー『ザ・リトル・ショウ』に使われ、1953年のミュージカル映画『バンド・ワゴン』でもフレッド・アステアらによって印象的に歌われた。ディーツ=シュワルツによる作品には、ほかに「あなたと夜と音楽と」「ダンシング・イン・ザ・ダーク」「アローン・トゥゲザー」等々、ほの暗く都会的な名曲が多い。



(2005年5月12日 三具保夫)
上にもどる
 

Copyright (C) シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン:本サイトで掲載の全ての記事・写真の無断転載を禁じます。