『ダウン・イン・ザ・デプスス』/ビル・ブラック Down In The Depths/ Bill Black

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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sinatra society of japan
TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『ダウン・イン・ザ・デプスス』/ ビル・ブラック

『ダウン・イン・ザ・デプスス』/
ビル・ブラック
Down In The Depths/ 
Bill Black
特別価格
 (YKCJ-304)
セラードア原盤
1950年代中頃録音 世界初登場
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  男性ヴォーカリストの系譜のミッシング・リンクを埋める歴史的発見!「フランク・シナトラの後継者」(ジョージ・T・サイモン)と期待されながら悲運な人生を歩んだ幻のシンガー唯一のアルバムを、世界に先駆けてリリース!
 

1.

Down In The Depths On The 90th Floor/ダウン・イン・ザ・デプスス・オブ・ザ・ナインティス・フロア >>試聴
2. Laugh, Clown, Laugh/ラフ・クラウン・ラフ>>試聴
3. Little Toy Train/リトル・トーイ・トレイン>>試聴
4. Spring Is Here/スプリング・イズ・ヒア>>試聴
5. So It's Spring/ソー・イッツ・スプリング>>試聴
6. Love And I Are Partin'/ラヴ・アンド・アイ・アー・パーティン>>試聴
7. Listen Little Boy/リッスン・リトル・ボーイ>>試聴
8. Nobody's Heart/ノーバディーズ・ハート >>試聴
9. Where Are You?/ホエア・アー・ユー>>試聴
10. Gloomy Sunday/グルーミー・サンデイ >>試聴
11. I'll Never Be The Same/アイル・ネヴァー・ビー・ザ・セイム >>試聴
12. Blame It On My Youth/ブレーム・イット・オン・マイ・ユース>>試聴
 
 

   余ほどのジャズ・ヴォーカル・ファンでも、ビル・ブラックという歌手を知っている人は少ないだろう。エルヴィス・プレスリーのバンドにいたベースのビル・ブラックとは、全く別人だ。ビル・ブラックは、ドラムスのジーン・クルーパのビッグ・バンドの専属歌手として1948年から1950年の間に活躍した人だ。ジーン・クルーパ楽団は、1950年に解散するのだが、スイング時代最後の偉大なバンドの一つだった。ビル・ブラックは、そうした、スイング・ビッグ・バンド時代の終幕期に現れたシンガーだ。有名なジャズ評論家のジョージ・T・サイモンは、フランク・シナトラ等の先輩を追う逸材だと評していた有望な歌手だった。

  本CDは、その幻のシンガー、ビル・ブラックの多分唯一のアルバムだろう。彼の友人、執筆家のビル・リード氏が、60年代に彼から貰ったアセテートから復元したものだ。50年近くたった劣化したアセテートから、サウンド・エンジニアのボブ・タッカー氏が苦心の末復元したが、「ブレーム・イット・オン・マイ・ユース」のようにどうしても雑音を消去し切れなかった部分もある。ビル・リード氏は、音楽関係のジャーナリストで著書に「ホット・フロム・ハーレム:プロファイル・オブ・アフリカン・アメリカン・エンターテインメント」がある。このノートを書くにあたっても多くのインフォーメーションを頂いた。

  ビル・リード氏が、アセテートを貰ったとき、このアルバムは、某レーベルへ吹き込んだもので、男性版のジュリー・ロンドンを狙ったものだと言っていたという。従って、ギタリストは、ジュリー・ロンドンのアルバムも弾いていた人だと言っていたが、名前は特定されなかった。ジュリー・ロンドンは、ギターとのアルバムを3枚入れている。バーニー・ケッセル、ハワード・ロバーツ、アル・ヴィオラだ。リード氏が、アル・ヴィオラやハワード・ロバーツ関係者に音を聞いてもらったところでは、どうもハワード・ロバーツに間違いないらしい。歌っている歌は、失われた愛や失われゆく青春を嘆くものが殆どで、シナトラの名作「オンリー・ザ・ロンリー」や「ノー・ワン・ケアズ」のコンセプトに近い。ビッグ・バンド時代とは、一味も二味も違う味わい深い歌を聴かせる。彼は、エセル・ウォーターズの「ロンサム・ウエルズ」等、あまり知られない歌を良く知っていたという。本アルバムでも、若い頃から歌っていたという「リトル・トーイ・トレイン」とか「リッスン・リトル・ボーイ」等珍しい歌を取り上げている。ジーン・クルーパ時代のコロンビアやビクターの録音は、一発のヒット狙いで調子は良いが内容のつまらない歌が多かったが、そこには、ヒットすればバンドの運営もやり易くなるといった、経済的に苦しかったビッグ・バンドの舞台裏が透けて見える感じもする。

  ビル・ブラックは、クルーパ楽団での活躍で注目を集め、1949年のダウン・ビート誌の読者投票では、バンド・シンガーのニュー・スター部門でジョニー・ハートマンの次ぎ、4位にランクされた。1948年11月号のメトロノーム・マガジンに前記のジョージ・T・サイモンが、ビル・ブラックについて書いている。「彼は、歌のフレージング、歌うときの姿勢、持ち前のハンサムな容貌などあらゆる面から大物になる予感がする。彼は、唯、美声というだけでなく、それを使う頭脳をもっている。彼は、歌をおおげさな情感で表現するのではなく、非常に注意深くその歌詞の意味するところを最も効果的なフレージングで聴衆に伝える能力をもっている」と褒め上げている。

  ビル・ブラックは、1927年にイリノイ州のグラナイト・シティで生まれた。両親とも音楽をやり、兄は、セントルイスで活躍した一流のベース奏者だった。ビルも小さい時から音楽に興味をもち、早くからプロとして活躍、セントルイスのクラブ「チェース」の人気者となり、そこで、歌ったり司会をしたりするようになった。そのうち、セントルイス・シヴィック・ライト・オペラ・カンパニーで役柄を得て、舞台経験もつんでゆく。そして、ニューヨークへ出て、ジーン・クルーパ楽団に入り本格的に活躍をすることになる。ポール・ホワイトマンのビング・クロスビー、ハリー・ジェームス、トミー・ドーシーのフランク・シナトラ、同じくドーシーのディック・ヘイムス、テッド・ウィームスのペリー・コモなどに続き、ジーン・クルーパのビル・ブラックも彼ら先輩のようにクルーナーとして更に大きく伸びると思われたが、ビッグ・バンド時代の終わり、クルーパ楽団の解散の後、マーキュリー・レーベルにソロ歌手として迎え入れられたが、1曲も録音することなく、消息はぷっつり切れてしまう。

  ビル・リードが、彼と出会ったのは、それから約10年後の1960年代の初めだったが、そのときブラックは、クレイ・マンディと名乗ってニューヨークのYMCAで受付係として働きながらショウ・ビジネスへの復帰を策していた。どうして姿を消して、名前を変えたか、はっきりしたことは言わなかったが、税金問題でカナダへ逃れ、名前も変えたのだというような説明を聞いた覚えがあるという。ところが、その後のビル・リード氏の調べで驚くべきことが、分かった。ビル・ブラックは、マフィアに付け狙われ、一度は、マフィアに襲撃されて、ロスの路上に半死半生で倒れているのを見つけられたこともあるという。50年代の音楽業界では、良くあったことで、マフィアが上納金を取るため、歌手や芸人を傘下におさめ、言うことを聞かないものは、容赦なく痛めつけるというのだ。ビル・ブラックは、マフィアの目から逃れる為に、名前を変えていたと思われる。然し、軽音楽界の環境も変わって行く時で、結局、陽の目を見ることなく終わってしまった。彼は、アルコール中毒だったが、失意や自暴自棄でアルコールにおぼれるといった面は見られず、いつもまわりを愉快にさせるような男だったという。1989年にニューヨークで亡くなったが、死んだときもウォッカのボトルを抱えていたという。



 
DISCOGRAPHY (Compiled by Bill Reed)
films
Deep Purple - "Gene Krupa & His Orchestra" Universal International short subject - April 1949
Studio recordings with Gene Krupa
Bambina Mia 1/26/49 Columbia 38496
Similau 1/26/49 Columbia 38415 (with v: Frank Rosolino)
Swiss Lullaby 5/9/49 Columbia 38520 (with v: Dolores Hawkins & Roy Eldridge)
Why Fall In Love With A Stranger? 5/9/49 Columbia 38622 (I Wanna Go Where You Go)
Then I'll Be Happy 2/24/50 RCA (unissued)
Dust 2/14/50 Victor 20/47-3721
Additional studio recording
Lucky Day b/w I Knew circa mid-1950s Lin Records L-1004
Location recordings
A Tree In The Meadow Jubilee AFRS transcription 1/11/49
Say It Isn't So Hollywood Palladium 4/5/49
Once And For Always Hollywood Palladium 4/5/49
I Couldn't Stay Away From You Hollywood Palladium 4/8/49
I'm Beginning To Miss You Hollywood Palladium 4/8/49
You're Mine Hollywood Palladium 4/12/49
Bambina Mia Hollywood Palladium 4/12/49
Green Eyes (with v: Dolores Hawkins) Hollywood Palladium 4/12/49
Tulsa Hollywood Palladium 4/12/49
I Couldn't Stay Away From You Hollywood Palladium 4/15/49
While The Angelus Was Ringing Hollywood Palladium 4/15/49
While The Angelus Was Ringing Hollywood Palladium 4/22/49
Bambina Mia Hollywood Palladium 4/22/49
Once And For Always Hollywood Palladium 4/26/49
You're Mine You Hollywood Palladium 4/26/49
Tulsa Hollywood Palladium 4/29/49
Similau Hollywood Palladium 4/29/49
Once And For Always Hollywood Palladium 4/29/49
I Couldn't Stay Away From You Steel Pier circa mid August, 1949
My Street The Click, Philadelphia 10/29/49(radio b'cast - recorded?)
Slippin' Around (w/Frances Lynn) Arcadia NYC 11/9/49
Don't Cry Joe Arcadia NYC 11/9/49
My Street Arcadia NYC 11/9/49



【 曲目 】

(1)ダウン・イン・ザ・デプスス・オン・ザ・ナインティス・フロア
コール・ポーター作詞作曲。1936年のミュージカル「レッド・ホット・アンド・ブルー」の中でエセル・マーマンによって紹介された。「マンハッタンの高層の90階の部屋、お金持ちなのに、想う人を他人にとられ唯一人、嘆き悲しむ」男といった歌を、ビル・ブラックは、早いテンポで歌いきる。長く引っ張って消えてゆくラストが印象的だ。

(2)ラフ・クラウン・ラフ
テッド・フィオリト作曲、サム・M・ルイスとジョー・ヤング作詞。1928年の作品。オペラ「I Pagliacci」のテーマをベースにした物だという。当初は、フレッド・ウェアリングやテッド・ルイスのバンドのレコードでポピュラーになった。アビー・リンカーンやシーラ・ジョーダンの歌で聞いたという人も多いだろう。「道化師は、内の悲しみを表に出してはいけない、いつも笑っていなければ、あなたは、その場を明るくさせる役なのだから」とビル・ブラックは、切なげに歌い上げる。

(3)リトル・トーイ・トレイン
ロナルド・スタイン作詞作曲。作者は、映画音楽を多く手がけた人で、彼がまだ学生時代に書いた歌だという。「部屋の中を走り回る小さなおもちゃの汽車が欲しい、高級なものじゃ無く、唯普通の汽笛を鳴らし、煙をはいて走る汽車、でも今は、もうおもちゃで遊ぶには、年取りすぎた」といった満たされなかった望みを、ビル・ブラックは、汽笛を真似た出だしから、回顧するようなしんみりとした調子で歌う。

(4)スプリング・イズ・ヒア
ロレンツ・ハート作詞、リチャード・ロジャース作曲。1938年のミュージカル「アイ・マリード・アン・エンジェル」の中で歌われた。「春が来たのに、私の心は躍動しない、何の望みも野心もわいてこない、多分、誰も私を必要としてくれないから」といった歌をビル・ブラックは、ヴァースから、沈んだムードの見事な歌を聞かせる。エンディングの問いかけるような「アイ・ヒア」のイントネーションが面白い。

(5)ソー・イッツ・スプリング

ウェイン・アーノルド作詞、トミー・ウルフ作曲。ジャッキー・アンド・ロイが「フリー・アンド・イージー」のアルバムで歌っていた。「春が来た、春が来たと皆が騒いでいるけど、それがどうしたっていうの」という感じの春になっても心の弾まないちょっと皮肉な感じの男を、ビル・ブラックは、面白く演じる。

(6)ラヴ・アンド・アイ・アー・パーティン
作者不詳。「前は、殆ど毎日何処かへ出かけて、誰かと会っていたけど、生き方を変えて、もう何処にも行かず、決して誰とも会わない、愛する人と私は、今、別れたんだから」といった歌。ブロック・コードによるギターのソロを挟んで、ビル・ブラックは、宣言するといった調子で歌う。

(7)リッスン・リトル・ボーイ
ハリー・F・ストーナム作詞作曲。「小さなおまえ、おまえもすぐに大人になるんだね、変わって行くんだろう、体は大人でも、心の奥底は、今と変わらない、私の言うことを聞かない子供なんだろう」。小さな息子に語りかけるように、ビル・ブラックは、優しく歌う。

(8)ノーバディーズ・ハート
ロレンツ・ハート作詞、リチャード・ロジャース作曲。1942年のミュージカル「バイ・ジュピター」の中で紹介された。「誰もかまってくれない、でもかまうもんか、と強がりを言う寂しい、何もやる気のおきない私」といった失意の歌をビル・ブラックは、ゆっくりとしたテンポでかみ締めるように歌う。それにしても良い声だ。

(9)ホエア・アー・ユー
ハロルド・アダムソン作詞、ジミー・マクヒュー作曲。1936年のミュージカル「トップ・オブ・ザ・タウン」の中で紹介された。当初は、ミルドレッド・ベイリーの歌でヒットした。シナトラ、ジョー・ウィリアムス、メル・トーメなど多くの歌手が録音している。「寂しい、寂しいという叫びから、好かれていると思ったのに、私をおいて何処へ行ってしまったんだ、私たちが別れるなんて信じられない、何処にいるんだ」と失恋の痛手を切々と歌い上げる。情感のこもった最後のフレーズも利いている。

(10)グルーミー・サンデイ
 ハンガリーのレズソ・セレス作曲、ラズロ・ジェーバーがハンガリーの詞を書いた1933年の作品で、あまりに暗い歌でこの歌を聴いて自殺する人が多く出た為、ハンガリーでは、ラジオ放送を禁止されたエピソードもある。英詞は、1936年、サム・M・ルイスが書いて、ボブ・アレンの歌うハル・ケンプ・オーケストラで初録音、ビリー・ホリデイの歌が有名だ。ビル・ブラックは、極力控えめなギターの伴奏で失意の心を搾り出すように歌っている。

(11)アイル・ネヴァー・ビー・ザ・セーム

マッティ・マルネック、フランク・シグノレリ、ガス・カーン作詞作曲。1932年の作品。「何も昔のようではない、私たちが別れてから、私は同じ私ではありえない。笑顔を作ってもそれは心の痛手を隠すため」といった失われた愛の歌をビル・ブラックは、スローなテンポで訴えかけるように歌う。

(12)ブレーム・イット・オン・マイ・ユース

エドワード・ヘイマン作詞、オスカー・レヴァント作曲。「初めて君とキスした時、恋を期待したのは、若かったから、私は、君が楽しんでいたおもちゃみたいな物だった、壊れて捨ててしまうおもちゃだ」。ビル・ブラックは、甘酸っぱい片思いの初恋を憂いを含んだムードで歌い上げる。



(高田 敬三)
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