『ヒア・カムズ・キャロル・クレヴェリング 』/ キャロル・クレヴェリング Here Comes Carole Creveling +2 /
Carole Creveling

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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sinatra society of japan
TOPSinatra Society of Japan presentsLPリリース>『ヒア・カムズ・キャロル・クレヴェリング 』(LP)/ キャロル・クレヴェリング

『ヒア・カムズ・キャロル・
クレヴェリング 』(LP)/
キャロル・クレヴェリング
Here Comes Carole Creveling /
Carole Creveling
\3800 (XQAM-4002) 原盤:ユーターピアン
録音:1955年   待 望 の
3 0 セ ン チ L P 復 刻 !
(180グラム重量盤)
>>購入する  

   2007年夏にCD復刻され話題をさらったヴォーカル・ファン垂涎の超幻のアルバムを、 ファンの要望に応えてオリジナル仕様LPで復刻。 CDのリリース後、キャリアも消息も不明だったキャロルは今も健在であることがわかった。 ライナーノーツは、キャロル本人から得た情報などをもとに、全面的に書き直した。
 

 
A-1. My Old Flame/マイ・オールド・フレーム  >>試聴
A-2. My Ship/マイ・シップ  >>試聴
A-3. You Have Cast Your Shadow on the Sea/ユー・ハヴ・キャスト・ユア・シャドウ・オン・ザ・シー  >>試聴
A-4. Better Luck Next Time/ベター・ラック・ネクスト・タイム  >>試聴
A-5. Long Ago/ロング・アゴー  >>試聴
A-6. Star Eyes/スター・アイズ  >>試聴
B-1. This Heart of Mine/ジス・ハート・オブ・マイン  >>試聴
B-2. One Morning in May/ワン・モーニング・イン・メイ  >>試聴
B-3. Now We Know/ナウ・ウィー・ノウ  >>試聴
B-4. Nobody Else but Me/ノーバディ・エルス・バット・ミー  >>試聴
B-5. Anything Can Happen with You/エニシング・キャン・ハプン・ウィズ・ユー  >>試聴
B-6. There's No You/ゼアズ・ノー・ユー  >>試聴

 
 
 

超幻のアルバム『ヒア・カムズ・キャロル・クレヴェリングVol.1

 私が初めてキャロルに関心を寄せたのは、超幻のアルバム『ヒア・カムズ・キャロル・クレヴェリング Vol.1』が高値で取引されているという事実を知った時だった。その後このアルバムを聴くに及んでその素晴らしさに衝撃を受け、このアルバムが制作された背景を知りたくなって多くの時間を費やしてきたが、2007年の秋ついに彼女の親戚に違いないという人物に行き当たった。彼女の妹である。

キャロル健在の報

 どうやってこの妹を捜し出せたかは一晩かかっても語り尽くせないが、伝説のピアニスト、ペイジ・キャヴァノーの一番のファンを自認するラリー・カノヴァの、まさにワトソン君級の助言に寄るところが大きい。15歳年下の妹デビーとの2回の電話で、ある程度の情報を得ることができた。デビーによれば、一家は1952年、キャロルが15歳の時にオクラホマからラグナ・ビーチに引っ越してきた ―― ということは、CDのライナーで紹介したジミー・ワイブルの証言「ルイジアナからやって来た」というのは記憶違いということになる。父親は投資関係の仕事をしていたが、同時に南カリフォルニアでいくつかのナイトクラブを買収した。
 信じ難いことだが、このアルバムが吹き込まれた時のキャロルは弱冠17歳だったという。アルバムで聴かれるキャロルは成熟したもっと年上の女性を想像させる。そして嬉しいことに、キャロルは今も南カリフォルニアで元気に暮らしているというのだ!
 キャロルは高校卒業後まもなく結婚し、足を踏み入れたばかりの歌の世界から身を引いてしまったとのことだ。専業主婦そして母親となったキャロルがプロのシンガーになることを諦めたことは、ジャズ界にとって大きな損失である。

そして、キャロルから電話

 同じ週のウィークエンド、デビーが確約した通り幻のシンガー=キャロル・クレヴェリング本人から電話があった。そして長い長い会話を通じてずっと抱いていた多くの謎が氷解した。例えば、プロ歌手としては1955年録音のLP『ヒア・カムズ・キャロル・クレヴェリング Vol.1』と翌年のシングル盤1枚がすべてである。LPに『Vol.2』はなかった。
 次の大きな疑問は、レコード・ビジネスとは縁遠いのどかな南カリフォルニアの幻のレーベルから無名の歌手のアルバムがリリースされた経緯であり、無名のアーティスト、無名のレーベルにもかかわらず『ダウンビート』誌にレビューが載った経緯であった。アルバムの制作を提案したのはキャロルの住むラグナ・ビーチにあったレコード店の経営者夫妻だったという。夫妻はキャロルのシンガーとしての才能を感知すると同時に、17歳という若さながら大人の歌を歌えると判断した。ピアノの正式レッスンを受けていたキャロルが歌を習ったことはなかったけれど、フランク・シナトラやエラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーンらの熱心なファンだった。
キャロルによればレコーディング・スタジオはロスだったが、それ以上はあまり覚えていなかった。私は数々の名録音を残してきた Radio Recorders ではないかと思っている。
 有名なスタジオ・ミュージシャンたちが伴奏をつとめてくれたことはしっかりと認識していた。すなわちアルバムでのジミー・ワイブル(g)やビル・ベイカー(p)、シングルでのルー・リーヴィー(p)、チャック・フローレス(b)、マックス・ベネット(ds)らである。レコーディングのプロデュースと資金の提供はレーベル・オーナーのバッド・スタークウェザーだったが、ナット・ヘントフがこのアルバムを『ダウンビート』誌でレビューした経緯については知らなかった。私は、有名なミュージシャンでソングライターそしてこのアルバムにかかわった、当時ラグナ・ビーチ在住のミルト・ラスキンが何らかの手助けをしたのではないかと推測している。
 『ダウンビート』での好意的な批評によってこのアルバムは全米にディストリビューションされたことが確認されているが、プレスされた枚数をつきとめるには至らなかった。キャロルの手元にはこの値打ちもののアルバムがまだたくさんあると思いきや、かなりくたびれたLPを1枚所有するのみだという。

アルバムの復刻

 キャロルは、このアルバムが発表から半世紀経ってついに評価されたことに大変喜んでいた。
 キャロルはその後も気が向けば時々歌ってきたのではないかと想像する方もおられよう。だが、かつてジョー・スタッフォードが私に語ったように、キャロルももう一度人前でちゃんと歌うには相当のトレーニングが必要だし、まったくその気はなかったし現在もないと断言した。ジョー・スタッフォードの場合は成功していた歌のキャリアを捨てて家庭と家族を優先させたわけだが、キャロルのケースはエンターテイナーとしてその端緒に着いたばかりでの引退だった。
 キャロル・クレヴェリングはアルバムの発表の前も後も、プロのシンガーとして人前で歌ったことはなかったが、高校時代にはクラスメイトであり今も南カリフォルニアで現役のミュージシャンとして活動しているライル・レニック(Lyle Rennick)が率いていたバンドで時々歌ったという。
 最近私はそのレニックから長文の手紙を受け取った。それによると、「1955年のクラスの仲間たちが集まる機会が2000年にあり、そこで当時のバンドの仲間たちと演奏した。その演奏会の前に私はキャロルのLPから20枚ほどCDのコピーを作り、参加者全員にプレゼントした。キャロルも来ていたが、昔と変わらず大変魅力的だった。彼女にCDを渡すと予期せぬ出来事に感激で目を潤ませた。10数人の元クラスメイトたちは全員で最初から最後までそのCDに聴き入ったが、キャロルは流れてくる自分の歌声に合わせて時折口ずさんだりしていた。

 そして年末、キャロル・クレヴェリングからクリスマス・カードが届いた。

クリスマスカード 表
クリスマスカード 中

(2007年12月 ビル・リード)

 

 以上にように、キャロル・クレヴェリングは依然ミステリアスな存在だが、本CDのパーソネルと曲目について簡単に記しておく。

【パーソネル】
@〜K:1955年録音
キャロル・クレヴェリング(vo)、ビル・ベイカー(p)、ジミー・ワイブル(g)、ジャック・コフラン(b)、ボブ・ノリス(ds)、ミルト・ラスキン(per)
LM: 1956年
キャロル・クレヴェリング(vo)、ルー・リーヴィー(p, Mのみ)、マックス・ベネット(b)、チャック・フローレス(ds)

【 曲目 】


A-1 マイ・オールド・フレーム
アーサー・ジョンストンとサム・コズロー1934年の作品で、女性向きのトーチソング。映画『罪じゃないわよ(ベル・オブ・ザ・ナインティーズ)』で、デューク・エリントン楽団をバックにメイ・ウェストが歌った。

A-2 マイ・シップ
アイラ・ガーシュインが作詞、クルト・ワイルが作曲して、1941年のミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク』でガートルード・ローレンスが紹介した。

A-3 ユー・ハヴ・キャスト・ユア・シャドウ・オン・ザ・シー
1938年にロレンツ・ハートが作詞、リチャード・ロジャースが作曲して、ミュージカル『ザ・ボーイズ・フロム・シラキュース』で紹介されたが、知る人ぞ知るの類のナンバー。

A-4 ベター・ラック・ネクスト・タイム
1947年にアーヴィング・バーリンが作詞作曲して、1948年のミュージカル映画『イースター・パレード』でジュディ・ガーランドが歌った。

A-5 ロング・アゴー
このアルバムでピアノを弾いているビル・ベイカーとパーカッションのミルト・ラスキンの作品。

A-6 スター・アイズ
ジーン・デ・ポールとドン・レイ1943年の作品で、映画『アイ・ドゥード・イット』でボブ・エバリーとヘレン・オコンネルがジミー・ドーシー楽団をバックに歌った。

B-1 ジズ・ハート・オブ・マイン
1943年にアーサー・フリードが作詞、ハリー・ウォーレンが作曲して、ミュージカル映画『ジーグフェルド・フォーリーズ』(1946)でフレッド・アステアが紹介した。

B-2 ワン・モーニング・イン・メイ
1933年にミッチェル・パリッシュが作詞、ホーギー・カーマイケルが作曲した。有名なわりにレコードの少ない曲だ。

B-3 ナウ・ウィー・ノウ
1943年にレイ・メイヤーが作詞、ウィラード・ロビソンが作曲したナンバー。歌っている人はほとんどいない無名曲。

B-4 ノーバディ・エルス・バット・ミー
オスカー・ハマースタイン2世が作詞、ジェローム・カーンが作曲して、ミュージカル『ショウボート』のリバイバル版(1946年)で使用された。

B-5 エニシング・キャン・ハプン・ウィズ・ユー
ふたたび、ビル・ベイカーとミルト・ラスキンの作品である。

B-6 ゼアズ・ノー・ユー
1944年にトム・アデアが作詞、ハル・ホッパーが作曲して、1945年にジョー・スタッフォードのキャピトル盤で紹介された





(2007年7月5日  三具 保夫)
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