ノー・ワン・ケアーズ/ フランク・シナトラ No One Cares/ Frank Sinatra

フランク・シナトラ Frank Sinatra SSJ Presents CD

sinatra society of japan

Frank Sinatra フランク・シナトラ

スタンダード・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのトップ・スター=フランク・ シナトラ。
シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン(Sinatra Society of Japan)は、 1981年12月13日、
シナトラの67歳の誕生日の前日、 つまりアメリカ時間で当日に、 熱心なシナトラ・ファン4人によって設立されました。

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sinatra society of japan

ノー・ワン・ケアーズ/
フランク・シナトラ
No One Cares/
Frank Sinatra
(Capitol LP: SW-1221 CD: 33741-2)  
1959年録音  
 

   1959年に吹き込まれたシナトラによるブルーバラード最高作の1枚。1年前の『オンリー・ザ・ロンリー』があまりにも素晴らしい作品だっただけに割りを食った感はあるが、壮絶な『オンリー・ザ・ロンリー』に対して、寂寥感に覆われながらもどこか安らぎを覚える不思議なアルバムだ。ゴードン・ジェンキンスのアレンジが果たした役割が大きい。
 


Side A
1. When No One Cares
2. A Cottage For Sale
3. Stormy Weather
4. Where Do You Go?
5. I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You
6. Here's That Rainy Day
Side B
1. I Can't Get Started
2. Why Try To Change Me Now?
3. Just Friends
4. I'll Never Smile Again
5. None But The Lonely Heart

Additional Tracks on CD

12. The One I Love Belongs To Somebody Else
13. This Was My Love
14. I Could Have Told You
15. You Forgot All The Words
 

 
 
 シナトラほどアレンジを重視し、アレンジャーを重用したシンガーはいないだろう。編曲の神様といわれるネルソン・リドルの評価が定着し、アレンジャー全体の地位が向上したのも、リドル自身の才能にくわえてシナトラのこの姿勢によるところが大きい。シナトラとかかわった多くのアレンジャーの中でとくに重要なのはアクセル・ストーダル、ネルソン・リドル、ゴードン・ジェンキンス、ビリー・メイ、ドン・コスタの5人である。アクセル・ストーダルはシナトラが女性ファン、特にティーンエイジャーたちのアイドルだった1940年代にスイートなバラードの編曲を数多く提供した。ネルソン・リドルはキャピトルと契約したシナトラがバラードとスイング・ナンバー両面において新たなスタイルを完成さえる上で重要な役割を果たした。ゴードン・ジェンキンスはシンプルでしなやかなストリング・オーケストレーションによって、リドルとは違ったバラード世界を創造した。ジェンキンス同様1950年代後半からシナトラのアレンジャーとなるビリー・メイは主にスイング・ナンバーの編曲を委嘱され、そのマッシヴでユーモラスなサウンドでシナトラをおおいに鼓舞した。そして1960年代中頃以降シナトラがもっとも信頼したアレンジャーがコンテンポラリーなサウンドやリズムにも柔軟に対応できたドン・コスタである。
 キャピトル時代にかかわった3人のアレンジャーについてシナトラは次のように語っている。「ネルソンはトランキライザーだ。彼は何が起ころうともまったく動じない。そして彼の音楽には深みがある。まさに天才だ」。「ビリー・メイにはいつも冷水を浴びせられる。1曲録り終えてもまだ次のアレンジができていないこともしばしば。スタジオのピアノの上で格闘している」。「ゴーディー(ゴードン・ジェンキンス)の音楽は母親の胎内にいるような安らぎを与えてくれる」。そしてジェンキンスとのコラボレーションの好例としてシナトラが挙げたのが『ノー・ワン・ケアズ』である。

 『ノー・ワン・ケアズ』は1959年3月から5月にかけてロサンゼルスで録音された。シナトラとジェンキンスは1957年すでに『ホエア・アー・ユー?』(W-855)と『ア・ジョリー・クリスマス』(W-894)という2枚のアルバムを制作していたし、『ノー・ワン・ケアズ』のあとも緊密な関係は続いた。アーヴィング・バーリンの作品を中心に歌った1962年のブルー・バラード集『オール・アローン』(R9-1007)や1965年に満50歳を記念して制作されグラミーを受賞した『セプテンバー・オブ・マイ・イヤーズ』(FS-1014)、1973年のカンバック作品『オール・ブルー・アイズ・イズ・バック』(FS-2155)、1979年の3枚組大作『トリロジー』(3FS-2300)といったリプリーズヘの諸作品である。
 いずれも水準を超える作品ばかりだが、『ノー・ワン・ケアズ』こそシナトラの寂しさとジェンキンスのやさしさが最高のフォルムで融合した作品といえる。『ノー・ワン・ケアズ』のシナトラにはリドルとの作品の時のような険しい表情はない。あるのは静かに目を閉じミュート弦や低音部をフィーチャーした慎ましやかなオーケストレーションに身を任せて心の呟きをひとつひとつ音にしていく姿のみ。
 1959年7月に@〜Jの11曲構成でリリースされたオリジナル・アルバム(SW-1221)は2位を最高に73週の長きにわたってアルバム・チャートにランクされた。Kは『ノー・ワン・ケアズ』のために録音されながらオリジナル・アルバムに収録されなかった曲、L〜Nは『ノー・ワン・ケアズ」のセッションとは関係ないシングル・リリース用の録昔である。

    



【 曲目 】


@ホエン・ノー・ワン・ケアズ
 サミー・カーン(作詞)とジミー・ヴァン・ヒューゼン(作曲)のコンビがこのアルバムのため書いたオリジナルで、アルバム全体のムードを設定する役目を担っている。このコンビはほかにも「オンリー・ザ・ロンリー」「カム・フライ・ウィズ・ミー」「カム・ダンス・ウィズ・ミー」「リンガ・ディン・ディン」「セプテンバー・オブ・マイ・イヤーズ」といったシナトラのアルバムのタイトル曲を提供している。1959年5月14日録音。指揮はネルソン・リドル。

Aア・コテージ・フォー・セール
 1930年にラリー・コンリーが作詞、ウィラード・ロビソンが作曲した失恋のバラードの名曲。1945年ビリー・エクスタインのナショナル盤がミリオンセラーになっている。ふたりが過ごした山荘をひとリ立ち去る時、楽しかった日々の想い出を一語一語かみしめるように歌う。まさに≪シナトラ=ストーリー・テラー≫の面目躍如。1959年3月26日録音。

Bストーミー・ウェザー
 1933年にテッド・コーラーが作詞、ハロルド・アーレンが作曲し、エセル・ウォーターズがヒットさせた。1943年にはリナ・ホーンのビクター盤が大ヒットしている。シナトラはブルージーに歌い上げ、はけ口のないやるせなさを完壁なまでに表現している。1959年3月24日録音。1944年12月3日(コロンビア)、1984年5月17日(キューウェスト)にもレコーディングしている。

Cホエア・ドゥ・ユー・ゴー?
 シナトラが尊敬する故アレック・ワイルダーが1958年に作った作品。変化をつけにくい難曲だが、シナトラはぐっとテンポをおとして正面から取り組んでいる。イントロとエンディングで強調されるベースが静寂にこだまする鼓動のようで、いっそうの孤独感をさそう。1959年3月26日録音。

Dア・ゴースト・オブ・ア・チャンス
 1932年にビング・クロスビーとネッド・ワシントンが作詞、ヴィクター・ヤングが作曲したバラード。同年ビングのデッカ盤がヒットした。シナトラはあまさを漂わせながらもズバリ歌の核心に切リ込んでいく。後半の“I'm dreaming”のくだりにこの曲の心が凝縮されている。1959年3月24日録音。1945年12月7日コロンビアにも録音しているが、このキャピトル盤にはおよばない。

Eヒアズ・ザット・レイニー・デイ
 1953年のミュージカル『カーニヴァル・イン・フランダー・ス』(6回で幕を降ろした失敗作)からのナンバーで、作詞はジョニー・バーク、作曲はジミー・ヴァン・ヒューゼン。パステルカラー風の格調高いバラードで多くの歌手がとりあげているが、シナトラほど哀しく美しく歌ったシンガーはいない。エモーション、フレージンク、緊張感、構築力どれをとっても申し分ない。彼の代表的バラードのひとつ。1959年3月25日録音。

F言い出しかねて
 1935年にアイラ・ガーシュインが作詞、ヴァーノン・デュークが作曲して、レヴュー『ジーグフェルド・オブ・1936』でボブ・ホープが紹介した。トランペッターのバニー・ベリガンが歌い演奏した名盤があるが、何といってシナトラのこのヴァージョンがベスト。1959年3月25日録音。

Gホワイ・トライ・トゥ・チェンジ・ミー・ナウ?
 1952年にジョセフ・マッカーシーが作詞、サイ・コールマンが作曲した歌。1952年9月17日に録音されたシナトラのレコードで紹介されたが、それはシナトラにとってコロンビアヘのラスト・レコーディングだった。この曲をはじめ心の傷みを切々と歌うシナトラにストリングスがピッタリと寄り添っていく。1959年3月24日録音。

Hジャスト・フレンズ
 1931年にサム・M・ルイスが作詞、ジョン・クレナーが作曲したスタンダード・ナンバー。速いテンポで歌われることも多いが、シナトラは一語一語丁寧に、突然訪れた恋の終焉を力まず歌い綴る。フレージングとディクションのよさが存分に発揮された名唱。1959年3月26日録音。

Iアイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン
 カナダのルース・ローが亡き夫を偲んで作った1939年のバラード。1940年5月23日録音のシナトラとコーラス・グループのパイド・パイパーズをフィーチャーしたトミー・ドーシー楽団のビクター盤がミリオンセラーを記録した。青春期のこのオリジナル盤にたいし今回の再録音には渋い魅力がある。1959年5月14日録音。指揮はネルソン・リドル、1965年10月11日にリプリーズにもレコーディングしている。

Jナン・バット・ザ・ロンリー・ハート
 ロシアの大作曲家チャイコフスキーの曲をもとにエドワード・ブラントがアレンジしたもの。作詞はガス・カーンとエドワード・ブラントで、1939年の出版。チャイコフスキーらしい重厚でメランコリックな曲想をもった難曲だが、シナトラは渾身の力をふりしぼって歌い上げる。1959年3月24日録音。コロンビア時代には1946年10月15日、同年10月31日、1947年10月26日と3回レコーディングしている。

Kザ・ワン・アイ・ラヴ
 1924年にガス・カーンが作詞、アイシャム・ジョーンズが作曲した作品。シナトラは1940年6月27日(ビクター)、1959年3月25日(今回)、1961年5月3日(リプリーズ)と3回レコーディングしているが、バラードはこのキャピトル盤のみ。他の2回ではスイングしている。リプリーズ盤は本盤からわずか2年後の録音なのにまったく違った歌に仕上がっており、是非そちらも聴いていただきたい。

Lジス・ワズ・マイ・ラヴ
 ジム・ハーバートが作詞作曲したナンバーで、1958年に出版された。1959年5月14日録音。ということは@Iと同じ日の録音だが、指揮だけでなくアレンジもネルソン・リドル。『ノー・ワン・ケアズ』の曲とはサウンドが異なるし、もともと曲想が違う。シングル用の録音だが、のちにアルバム『オール・ザ・ウェイ』(W-1538)に収録された。1967年7月24日には「ジス・イズ・マイ・ラヴ」とタイトルを替えてゴードン・ジェンキンスの編曲指揮で再録音している(リプリーズ)。

Mアイ・クッド・ハヴ・トールド・ユー
 1953年にカール・シグマンとアーサー・ウィリアムズが作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンが作曲したバラードで、シナトラのこのレコードがビルボード・チャートの21位にランクされた。レガートを使いながらも折リ目正しい歌いぶりがいかにもシナトラらしい。1953年12月9日録音。編曲指揮はネルソン・リドル。シングル用の録音だが、のちにアルバム『ルック・トゥ・ユア・ハート』(W-1164)に収録された。

Nユー・フォーゴット・オール・ザ・ワーズ
 1955年にバーニー・ウェインが作詞、E・H・ジェイが作曲したナンバー。1955年10月17日録音。編曲指揮はネルソン・リドル。シングル用の録音だが、のちにアルバム『ジス・イズ・シナトラVo1.2』(W-982)に収録された。日本では1957年にシングルとEPでリリースされて以来の登場。


(1993年10月16日  三具保夫)
(CD 東芝EMI CP32-5559 より)



(2006年6月2日 三具保夫)
 

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